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★『おすすめ文庫王国2006年度版』で佐伯泰英完全読破に挑んだ助っ人・関口鉄平。絶対途中で挫折すると思ったのに、そこは鉄平の粘着質な性格と佐伯泰英の面白さのおかげで、92冊完読に成功したのであった。
偉業は達成され、増刊号も無事出版された頃、関口鉄平は大きな体を折り曲げ小声で「日記があるんですけど」と呟いた。日記? 日記なんてつけろっていったか? 「いや僕日記をつけるのが趣味なんで」。ふーん。だから? 「いやせっかくなんで蔵出していただけないかと思いまして」なるほど、ふむふむ。読み出したがその長さといったらない。どうしてお前は読書日記なのにこんな余計なことを書くんだ? 「日記ですから」
わかった鉄平、お前の努力が報われることをここに証明しよう、というわけで「関口鉄平 佐伯泰英完全読破日記」をここに全文掲載だぁ。
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9月13日(水)
一ヶ月間佐伯泰英を読んでみないかと言われたのは夕方帰り支度をしているころだった。この夏に『本の雑誌』の特集で岩波書店の本だけを一ヶ月読み続けるというものに参加していたので、また『本の雑誌』の企画なのかなと思っていたら『文庫王国』のものだということで、今度はぼく一人にやってほしいということで驚く。しかも4ページで考えているということで、思わず「大胆ですねえ」と言ってしまう。考えた末、こんな機会はめったにないのだと思って引き受ける。
9月22日(金)
早稲田の古本街に行く。佐伯泰英は時代小説で人気シリーズ物を続々と出しているが、やはりシリーズ物は一巻目から読んだほうがいいということで、なるべく第一巻か、もしくはシリーズ以外の物を探す。
しかし計算外の事態。佐伯泰英を探すはずが、古本屋のすばらしさにいまさらながら気づいて、なかなか佐伯泰英に集中できない。しょっぱなから20円均一ワゴンなんというものに遭遇し、これはカルチャーショックであった。本が一冊20円って。世界は広いと早稲田の中心で実感する。実感している間に時間が過ぎていき、数件回っただけで今日は打ち止め。収穫は佐伯泰英(もちろん)の、『逃亡』(ケイブンシャ文庫)『妖怪狩り』『流離』『見番』(光文社文庫)。計550円。なかなか百円台のものは少ないのだな。
家に帰って驚く。『逃亡』『流離』『見番』は同じ吉原裏同心シリーズだが、なんと『流離』をひらくと「ケイブンシャ文庫『逃亡』改題」とあるではないか。アウチっ。いきなりのダブりに出鼻をくじかれる。なんで一年半の間に二つの出版社から、しかも別のタイトルで出てるのだ。絶対に同じ間違いをした人が百人はいる。いや、佐伯泰英は読者も多いから千人はいる。きちんと確認しなかった自分が悪いのだが。
本の雑誌社に行って見せると、ケイブンシャ文庫というのはもう絶版なのだという。レアなのだろうか。ならいいが。
9月23日(土)
なかなか時間が取れなかったが、ようやく佐伯本を読み始める。ここから一ヶ月となるのだろうか。なんだか適当だ。というのも前回の岩波縛りのときはそれ以外の本は読んではいけないということだったが、今回は特別縛りはない。前は被験者みたいな感じだったが、これは……なんだろうか。立場がはっきりしない。書評家みたいなものを求められているのだろうか。『文庫王国』の中ではイロものなのは確かだが、それくらいの認識でいいのか。まあ読まないことにはなにもわからんだろう。ということで読み始める。
『流離』(光文社文庫)。まず、ページの半分は空白である。一文での行替えが多く、短い会話も同様。このまえ読んだコバルト文庫を思い出す。
設定は登場人物たちの会話で何度も繰り返され、複雑な人間関係も読み進めるうちに完全に把握できる。小説をペンキ塗りに喩えるなら、これは部分をそれぞれ塗っていくのではなく、新たな箇所を塗るにも上塗りを繰り返し、絶えず全体を濡らしているよう。わかりにくいかなあ。とにかく、読者は本を再び手にとっても、いちいち読み返したりしなくてもいいということだ。
しかしいささか場面展開が急なところもあり、これは脳内音読をするより、話の流れを読んでいくべき小説だ。速読に向き、はじめの一冊だったが300ページを三時間ほどで読めた。自分にしてはふだんより二時間ほど速い。
主人公は幹次郎と汀女、これは駆け落ちした二人の軌跡を描いていくのだが、吉原の裏同心として居を定めた後も、駆け落ちは解決されない。汀女の夫だった藤村が逃亡する二人を命ある限りと追い続けるのだ。一生の怨恨を背負った二人は追われ続ける身。本書のうちでも物語は続いていく。後味という意味では、読者も藤村たちに狙われつづけているようで、なんだか不安が残る。しかし爽快だ。それは静かな余韻とでもいうか、ひと時の安楽を分かち合う幹次郎と汀女の姿に人間の芯の強さを見るからであろう。
吉原という異界ともいえる、独特の倫理観が存在する場所を舞台にしたことも、ストーリーに波乱を加える。外の世界とは従うべきルールもちがうゆえにとうぜん諍いも絶えない。故に廓の用心棒は倫理的にしっかりした土台を持ち、敵を斬らなければいけない。ちょっとくどいかなと思う時もあるけれど、人々の見せる義理人情は時代小説ならではだ。
9月24日(日)
酔いどれ小藤次シリーズ第一作『御鑓拝借』を読む。方南図書館から借りたものだ。
藩主の受けた屈辱を雪ぐために、辞職した小藤次は他藩主の参勤交代中を襲い御鑓を奪い取っていく。街道のど真ん中、公衆の面前で恥をかかされる藩主ら。御鑓を持った小藤次につぎつぎと襲いかかる刺客たち。緊迫の剣劇、緊張みなぎる逃走。そして小藤次の忠心のゆくえは……!
という感じで、ストーリーの発想からしてじつに奇抜。
しかし奇抜なのはストーリーだけでなく、文体もすごい。相変わらずページの半分は空白で、速読用なのは変わらないのだが、その書き方にも磨きがかかっている(『御鑓拝借』は『逃亡』の三年後)。擬声語や擬音語を使うごとに行替えをしているのだ。たとえば30ページ。
小藤次が、
ひょいっ
と手拭を持つ手を捻った。(略)
これが戦闘シーンの「つつつっ」「ぐえっ」だけでなく、「うーむ」「あっ」なども同様の形で用いている。もう加速つきまくり。ページをたぐる手が
さささっ
と動きつづけて止まる暇もない。
うーむ
と鉄平はうなるのである。
三人称で語られる物語は視点がくるくると変わり、多面的に捉えられるその中心にあるのは小藤次という男である。忠に厚く、水兵剣法を扱う剣の達人。その一方で酒を何よりも好み、矮躯容貌魁偉に劣等感を持つゆえ好いた女にも恋を告げられず、きっぱりとしているかと思えば、案外に未練を持っている。なかなか憎めない男なのだ。
それだけに残念なのは、小藤次が次々と剣を振るうことの、その理由がよく飲み込めないことだ。それほどまでのことなのか。確かに遣えていた藩主は城を持たぬ故に嘲られ笑い者にされたが、それがために白昼の街道で繰り広げられる殺傷沙汰は、現代の人間には異常だ。剣に生き忠のために死ぬ侍とはこのような物騒な時代に生きたのか? それは違う。なぜならこの中に出てくる侍たちはほとんどが真剣勝負などしたことがなく、だからこそ小藤次の襲撃に手も足も出なかったのだ。小藤次はこの時代にしても異種の侍であった。そうして理想のヒーローだったのだ。そのヒーローは鬼のように強い。一度だけ深手を負うのは、誰かに斬られたからではなく事故のようなものだった。それでも剣士たちに勝ち続ける。圧倒的に粉砕する。そして、死んだ剣士のその弟子らが小藤次に復習を果たさんとまた追い続ける。小藤次は追われ続ける。おお、似ている! 『流離』に似ているではないか。この物語もまた、シリーズ物となる。因縁を引きずって、小藤次の戦いは続いていく。
あれ? 話がそれてしまってしかも締めみたいになってるがまだいい足りない。いや、でもまだ待とう。これから小藤次シリーズ第二弾を読んで、それから再び「なぜ小藤次はその理由の下に剣を振るい続けるのか?」を考察しよう。なんだか本格的になってきたなあ。
9月25日(月)
営業の杉江さんに聞いてみる。
「杉江さん、前に佐伯泰英面白いって言ってましたよね。どのシリーズを読んだんですか?」
すると意外な答え。
「おれ一冊も読んだことない」
「ええっ!」
そこに顧問目黒さんがいらっしゃる。目黒さんは佐伯泰英の本を持っていて、貸してくださると聞いていた。
「目黒さんはどのシリーズを読まれたんですか?」
「ん。おれも読んだことないよ」
耳を疑う。
「で、でも前に杉江さんの営業日誌に面白いって……」
「ああ、それは『面白そう』と書いたんだよ」
目黒さんが嬉しそうに付け加える。
「会社の誰一人読んだことないんだよね」
「そうそう、だから面白かったら教えてね」
な、なんてことだ。この企画はいわば佐伯泰英の毒味、もとい読味であったのだ。なんという会社であろう。
酔いどれ小藤次シリーズ第二作『意地に候』を読む。この話をシリーズにするとは、佐伯先生もやり手である。時代小説のシリーズ物と言うと水戸黄門的なものしかありえない(そうでなければ大長編)と思っていたが、これは大長編の流れを生かした見事なシリーズ物だ。
今回の小藤次は一転、市井の暮らしに身を置く。そこには商売を営んだり夕食の菜に悩まされたりと生活感豊かな姿があり心温まる。しかし小藤次の回りには常にきな臭い影があり、これもまた宿命か。しかし宿命を背負いだしたのも、自ら厩の世話係を辞職して闘いの世界に足を踏み入れたからである。御鑓騒動で多くの因縁と結ばれた小藤次は、新たな追っ手に狙われ続ける。
P257の一節を引こう。
緊張をはらんだ、だが、表面上は静かな日々が戻っていた。
生活の中に死の影が忍び込んでいる、その緊張感、抑揚、生の確かな手触りを感じさせる。これは水戸黄門にはないものだ。安定した基盤を持つことの出来ない小藤次の運命は、読者を引きつけて止まない。
さて、話は変わって、こまごまと気になったところを。P145にある箇条書きの部分。『ツ・イ・ラ・ク』を思い出したぞ。なんだか佐伯さんが壊れてきている気がする。内容の把握はしやすいんだけど。
そしてこれにはたまげた。そのまま引用しよう。P168。
小杉半紙は、お屋敷や大店の奥向きで鼻紙などに使われた。今でいう鼻紙、ティッシュのことで、安いものではない。
「いま」っていつだよっ! と思わずツッコミがはいってしまった。びっくらこいたよ。物語世界にどっぷり入り込んでいたら突然の遠近感。ここはどこ、わたしはだあれ? 自分の位置が一瞬つかめない。映画のクライマックスで照明入れちゃうようなものである。たしか芥川が『羅生門』でこういう書き方使ってたけど、もしかしたら佐伯さんは純文の方かもしれない。
たしかに文章は現代語を使っていて、登場人物の口調もかなり現代口語的だ。時代小説の語り手問題というのは奥が深いのかもしれない。
今回の名言。この文句に当たって、自分はようやく付箋を付け出した。研屋を営む小藤次が、世話になった家へ刃物を研ぎにいく。小藤次はお代はいらぬというが、そこで紙問屋の大番頭の観右衛門が一言。
「よいですか。あちらは知り合いだから、研ぎ代を安くする、こちらは入魂ゆえお代は頂かぬ、では商いが立ち行きませぬ。商いの代は等しく頂き、また支払った上で世話になった分は気持ちでお返しする。これが商いの上での要諦、付き合いにございます」
お見事の一言。こういう言葉に出会えただけでこの企画に乗った価値はある。
擬音の問題。まず擬音語と擬音語の二つに分けてみる。前にも言ったように佐伯泰英はこれらを行替えして単品で用いている。わたしはこれには違和感を感じていた。とくに擬音語が気になった。それはなぜか?
答えはおそらく、自分の活字経験に基づくのだろう。自分が一番影響を受けてきた活字文化は、少年漫画である。そこでは格闘シーンがふんだんに盛り込まれ、必然的に擬音語や擬音語も多かった。そしてここが重要なのだが、漫画では擬音語擬音語は吹き出しでは使われず、背景的に使われるということだ。吹き出しの中に使われるのは擬音語の、しかも一部の叫び声などの擬音語だけである。例えば、
「ひっ、驚いたぜ」
「わっ、あぶねえ」
という具合。しかし斬られた男の叫び声などの
「ぎゃああああぁぁ。やられたぁぁ」
の「ぎゃああああぁぁ」などの部分はあまり吹き出しには含まれない。絵の中に作者の直筆で描かれ(書かれ、ではなく)、ときに人物の陰に隠れて見にくいこともある。
擬音語においてはもっと顕著で、小さな物音に人物がどきっとする場面などに、「がさっ」という文字が吹き出しに使われることはあっても、やはり斬り合いのシーンでの、
「ずばっ」
「さささっ」
「どごっ」
というのは吹き出しには入れられない。少なくとも自分の読んでいた週刊少年ジャンプでは以上のような傾向にあったと思われる。
ジャンプは特に斬り合いのシーンが多かった。剣を使うのは闘いの王道であり、少年たちの憧れであった。少年たちは新聞紙とダンボールで剣を作り、剣豪ごっこをやった。
「とりゃっ、飛翔剣っ」
「くらえいっ、双龍閃っ」
などとかけ声とともに技を繰り出したものだ。またそれだけでは雰囲気が出ないとならば、擬音語も自分たちで奏でる。
「ざざざっ、ばんっ」
「おりゃああ、ずばばばっ」
「かきーん、かきーん」
声に出す擬音語は、なんとも不自然で、滑稽であった。だけど他に手がないではないか。戦隊もののおもちゃで「ビビビッ」とか「きゅーん」とか鳴るものは、高くて買ってもらえないし。違和感は勢いでごまかしていた。だがぼくは冷めたところのある子供で、誰よりも早く興ざめしていた。一人がやる気をなくすとみんなのムードも下がるので、しかたなく付き合っていた。だから「いっちぬっけたー」とかいうやつは大っ嫌いだった。お前空気読めよ、と一番空気に馴染めない自分が思っていた。
閑話休題。話がそれてしまったが、ここでいいたかったのは子供の発する擬音語がどれほど不自然で滑稽かということである。漫画は擬音語という厄介なものを、背景化させることによって違和感を消した。
どうして違和感がなくなったのかというと、ここで少し個人的見解に入るが、私は脳内音読派である。最近なんとか速読しようとしているが、やはり根は音読せずにはいられない質である。そして脳内音読派にとって、漫画の擬音語はじつにありがたい。読まなくていいのである。見るだけで、その表す意味や空気が伝わるのである。「ぽわわん」は丸く、「がががっ」はぎざぎざに描かれるという具合に。雰囲気がよく伝わる。
しかし佐伯泰英の小説では(まず普通の小説でも)、擬音語も会話文も地の文も、同じフォントで書かれる。だから、
「ひょい」
「ひらり」
「ぽん」
というのに違和感を感じる。頭の中で男の子たちが「ひょい」「ひらり」「ぽん」と言いはじめるのだ。緊迫感が削がれてしまう。
と、いってもこれは小説には仕方のない問題で、そういうものは読み進んでいけば気にならなくなるだろうとも思う。しかし佐伯泰英はひとつだけ他と異にしているのだ。先に書いた通り擬音語を単品で用いている点である。
小藤次がおしんのかたわらに寄せ、片手を差し出すと、
ひらり
と馬の背に飛び乗ってきた。(『寄残恋花』P58)
「さて参ろうか」
と馬の背を軽く、
ぽんぽん
と叩き、手綱を緩めた。(同P56)
三撃目が雷助の喉を、
ぱあっ
と斬り裂いた。(同P101)
ここまで来ると、やはり読むスピードを考慮したものであるにちがいない。
この方法なら加速的に読み進めることができるが、うーん、やはりまだ脳内音読から離れられないものの繰り言でしかないのだろうか。
9月26日(火)
酔いどれ小藤次シリーズ第三作『寄残恋花』を読む。新宿より西側の地理が出始めて、そういう面からも興味がわく。いままでの江戸堀の地域は馴染みがないので地名はすっとばしていたが、こういうところも江戸っ子のおじ樣方には受けがいいのだろう。時代小説の必須項目ですな。
第三弾とあって、それなりに落ち着いてきたからか、新たな登場人物を配して新鮮さを保っている。次々と刺客が送られてくるが、いまのところライバル的なものは出てこない。期待したいところだ。
さて、佐伯泰英が尽きた。あるのはシリーズの途中のものだけ。なかなか一から揃えるというのもむずかしいものだ。
9月27日(水)
今日の助っ人中のこと。杉江さんと藤原さんがなにやら話し込んでいた。
「なあ鉄平も入れちゃおうか」
「そうですね、でもやめといたほうが」
「だいじょぶだいじょぶ、いけるって。あんがい書店員の人とか知ってるから」
「入れてあげる」という言葉は甘美である。仲間に入れてくれたり、一緒に遊んでくれたり。少なくとも相手が好意をもって接してくれていると思える。
きれぎれの言葉から、一つの仮説を立てる。
「これは以前にセッティングしてくれると言っていた合コンのことではないか?」
仕事が手に着かなくなってきた。そんな様子の自分に杉江さんが近寄ってきた。手に一枚の紙を持っている。
「こんなの作っちゃった」
そういって見せてくれたのは『文庫王国』の書店用チラシであった。そこに書かれていた文句にびっくり。
「助っ人・関口鉄平が佐伯泰英読破に挑戦!」
読破! いやいやいやいやいやいやないですないですなんですかそれっ。どうすんですかそんな大言壮語吐いちゃって、そんなの契約になかったじゃないですか。
「まあでも作っちゃったものは仕方ないしなあ。まあ頑張って。百冊ぐらいでしょ」
ぐらい、ってあなた……ぼくがどれだけ遅読か知ってるんですか?
しかしこの人はサディストなので、抵抗すれば抵抗するほど喜び、だからあえて「はあ、まあがんばります」と流しておいたが、しかしあの文句で通ってしまったらわたくしは大嘘つきではないか。活字デビューで虚言を吐くたあ、考えるだにそら恐ろしい。
まあとにかく読んでいくしかないってことだ。佐藤多佳子はどっちにしろまだ三巻が出ないんだから後回しにして、さてどうやって佐伯泰英を集めよう。幸い目黒さんからもらった本に佐伯作シリーズ一覧みたいのがあって、役立ちそう。これをもとに古本屋、ブックオフ、書店、図書館でめぐっていくか。ああ、けっこう大変やなあ。
9月28日(木)
浜本さんにもらった佐伯泰英全文庫チェック表をもらう。ブックストア談浜松町店においてあるようだ。なんというタイミングなのだ、談よ。
赤ペンでぽちぽちチェックしていく。数えてみると時代小説は88冊+読本が2冊。ということである9月16日現在は。しかし一ヶ月に一冊強は出す人だからすぐ旧情報となってしまうのだろう。いとおとろしや。市村さんが「読もうと思ってるんだけどねえ。鏡(明)さんも好きだっていってたし」「へえ、鏡明さんが。なんだか意外」「それで読もうと思ったんだけど、なにから手を付けていいか。それに、読んでるうちから新しいの出るしねえ」と言っていたくらいである。
とにかくいまあるのはとびとびなので、きちんと初めからシリーズを揃えていかなければならない。ということで方南町、高井戸、荻窪のブックオフを回る。数冊ゲット。百均棚にはほとんどなかったが、まあ定価よりは安いからいいかと買っていった。佐伯先生は売られない作家なのだろうか。というより、まだ時代小説を書き始めて十年も経っていないからか。本がみんなツルツルしてる。
とりあえずなんとかこれで明日まで食っていける。少女漫画の収穫もあったし、満足満足。
吉裏同心シリーズ第二巻『足抜』。初の濡れ場にドキドキ。しかしそれも単なる読者サービスというより、ある種の必然性を持っている。というかここで幹次郎が汀女に抱きつかなければ嘘だ。
まぎれもない事実として女郎衆の血と涙の上に成り立っている吉原という街で、用心棒として生計を立てているという事実。幹次郎は自覚しながらも、女たちを苦しめる悪を斬るとき、やはり女たちの不遇を思っているのだ。怒りが満ちて、普段から見ると多少過剰な成敗を加える。女たちの血をすすり、女たちの為に剣を振るう。言葉はない。しかし、その剣は語るのだ。矛盾に陥る幹次郎を救うものは、妻の汀女をおいて他にいない。幹次郎が汀女を求めるのは、また体の繋がりを求めるのは、そここそが帰るべき場所であり、唯一確かなものが認められるからだ。
吉原という街で、戒律と人情が交錯する。独特なルールは、ふたしかで、人間たちは対立する。そこに散る火花こそが、この舞台で最も美しい。
9月29日(金)
本日は九時には起きて早稲田古本屋まわりをしようと思っていたが、起きたら十時半。しまったとすぐに出発、あらかた開いている古本屋を巡に見ていき、求めるものはただひとつと心にしかと決めて目を血走らせる。それぞれの店には得意分野があるようで、それでも文庫本などは揃えていたりする。どうせなら一カ所にまとめてほしいと思うが、店々を見て歩くというのも面白い。思いがけない出会いがある。目につく佐伯泰英を手にとって、十冊ほどゲット。穴埋めは大きなブックオフで済まそう。
交代寄合シリーズ第一巻『変化』を読む。いきなりこのタイトルに驚く。せめて二巻からつかうだろ、このタイトル。大胆だなあ。
まず解説を読むことにしている。そしてこの細谷正充さんの解説がうまいことうまいこと。魅力的な解説だ。わくわくしながら読み始めた。
面白い。これからの続編が楽しみだ。
9月30日(土)
授業が始まる。学校へ行く。その前にまたブックオフ回り。350円のしかなかったが、しかたない、方南町店でがばがば買って、いったん下宿に置いて、また出発。中野通りにある店に入ると、ルパンの歌が流れてる。さて、また350円棚を見る。あんまりない。あきらめムードで100円棚に近づく。目に見慣れた背表紙群が入る。驚く。そんなばかな。優に20冊はある。こんなところに宝が隠されていたなんて。ここは下宿に一番近いブックオフだった。東大も戸倉氏、じゃなくて灯台下暗しとはよくいったものだが、いかんせん実践で有用されていない。呻きながらリストをたぐって、たえず回りを威嚇しながら、あっこれもこれも買っちゃってるぞちくそうめ、あっでもこれはちょうどなかったやつだラッキー、などと浮き沈みしつつ計十三冊購入。これでアベレージがぐっと下がった。
それから幾店かをまわり、徒労に終わるも今日の成果はあった。学校で授業を済ませて、そのまま東西線で実家に帰る。実家近辺の古本屋にもよって一冊ゲット。阪神負けるの報を受ける。ノラ猫が庭でのさばっている。ブチが顔にあるので不細工この上ない。遺伝のせいか子猫まで同じく器量がわるい。
交代寄合シリーズ第二、第三弾『雷鳴』『風雲』。
武具屋の娘の文乃がいい。元気はつらつとして、物怖じしない。幽閉されているのに茶がぬるいと文句を付ける。いままさに斬られんとしたところで藤之助たちに助けられたときでも、気丈に応じる。「あら、左京様、よく文乃がいるところがわかりましたねえ」しかし体は細かく震えているのだ。うまいな、佐伯泰英。ちょっとありえないような人物ながら、物語にきっちり馴染んでいるのは、これが幕末を舞台にしているせいかもしれない。変動の時代にあって、この娘の力強さはヒーローに劣らない魅力がある。
主人公の藤之助は、主殺しにはじまり、短いあいだに多くの経験を得、やがて時代の大きなうねりに飲み込まれていく。
まだ少ししか読んではいないが、このシリーズは異色ではないか。出だしが安政の大地震、そして幕末の動乱へとなだれ込んでいくのだ。両方ともに当時実際にあったことに基づく。
時代小説というと、小さな物語で動くものだと思っていた。市井の人々の生活、それが時代小説の醍醐味だと。義理や人情や粋と、人間たちの魅力が身の丈で語られるものだと.
だが、これは一家一族レベルでない、いまのここにまで及んできそうなほどの大きい物語が、前方から影を落としている。追っ手や死の不安に追われ続けるというひとつのシリーズ物の型を佐伯泰英は用いるが、その最たるものがこの交代寄合シリーズではないか。一つ違うものは、歴史上の事実ゆえに、どう抗おうと彼らは影の中に取り入れられるということだ。
赤目小藤次シリーズでも、吉原裏同心シリーズでも、追っ手は背後から来た。因縁が昔にあり、そこから恨み憎しみが生まれてきたのだ。そして未来はフィクションに委ねられた。
しかし藤之助たちの前には、読者にとっての既知な世界が広がっている。避けられぬ運命、大きな物語は彼らに今後どのような試練を課すのだろうか。事件と年表はわかっているのに、どうしてこうもわくわくするのか。
10月1日(日)
ノラ猫の便所を作る。飯を食って、寝る。起きると阪神戦は雨天中止だと言う。はあ。
吉原裏同心シリーズ第三弾『見番』。そろそろ混ざってくる。いえい。楽しいではないか。吉原での独特な倫理観に驚かされ、感動する。かっちょいい!のあとに、なんでなんで?が来る。倫理観とはすなわち損得感覚のならしである。作者はそこのところを、かなり念入りに、繰り返し書いている。ちょっとくどいが、礼儀の一種かと割り切ると気にならない。
今回は初めて汀女が身の危険にさらされる。読者としてはいつ来るかいつ来るかと待ち受けていたから、ほっとした。アンタッチャブルほど危ういものはないのだから。ためた分だけあって、幹次郎の驚きと怒りは大きい。水戸黄門では味わえない緊迫感だ。
ぶっち明けてしまうと、次の巻が出てることを知っている。だから、シリーズが破綻するような事態には陥らないとわかっているのだ。「彼らは死なない」と、もうわかってる。だから自分のような途中参戦の人間は損だったりする。でもそうなるかどうかは、作品次第でもある。
次の巻がもう出ていると、わかってるんだけどやっぱり、心配してしまう。
「うしろうしろ! 幹次郎っ、うしろうしろ!」
「その道はだめだよ。絶対草むらに隠れてるよ。危ないよ」
「ああっ、鉄砲なんて卑怯だぞこの野郎!」
「痛っ」
「いけ、いけ、いてこましたれえ」
「ほっ。助かったあ」
―――読者は傍観者である。ただし、ドキドキする傍観者である。
10月2日(月)
雨が上がったので学校に行って自転車をとっていこうと思ったら、神社ににぎわい「あれは!」思わず小走る。ひと通り見て、五冊発見。四冊が200円、一冊は100円だった。
酔いどれ小藤次シリーズ第四弾『一首千両』。このシリーズはとくに生活感を大事にしている。鬼のように強い侍が、研ぎ屋として営業する姿は剣劇シーンと対置すると際立つ。
食膳の説明が細かい。それでいながら、今回は水戸まで出かけてわが好物の納豆まで出たのに、やっぱり、そう、やっぱり味わっていないのだ。どんな食卓かはイメージが豊かなのだが、それがひとたび口の中に入ってしまうと語り手は興味をなくす。口に入ってから描かれるのが酒である。小藤次はじつにうまそうに飲むのだ。うらやましい。
さて、まあ今回も面白く読めた小藤次シリーズであるが、これを主材として佐伯時代小説の傾向を見ていきたい。
まず、構成。これまでの3シリーズ十冊を見ると、すべてが書き下ろしの長篇である。そして五篇に分かれていて、それぞれタイトルがついている。シンプルで内容説明にもなっている。ミステリーじゃないので、筋はわかっても大して構わない。一篇はほぼ一定していて、60〜70Pほど。それが五つで300〜330Pあたりに収まっている。
いま他のシリーズも見てみたが、多少の違いはあれどほぼ同じかたちで書かれている。
それぞれの篇には、まあまちがいなく入ってるものがある。剣劇シーンである。たいてい50〜60P目あたりに入ってくる。水戸黄門ではないが、ここまできっちりしてると、たまに最後の数ページまで出てこないときなどは不安になる。
ちなみに、入浴シーンはない。
そういったかたまりで、起承転結をつけてあるので読みやすい。もう、とても読みやすい。このごろは一分毎4ページというペースで読めるようになった。会話や行替えが多くはあるが、文字数でいっても他と比べて断然速い。説明の必要なところでは、無駄なことは省き、簡潔に明解にこなす。吉原文化などは眼目でもあるので、一見文字は少ないがよくわかる。頭の中に意味を入れるのと頭の中で咀嚼するのがいい具合にはまっている。
あと、人物説明や出来事の繰り返しが多いので、いっぺん第三巻とかから読んでみようかな、と思えるくらい、しっかりと初読者に配慮がある。こちらはすっ飛ばしていくだけだ。そろそろ多数のシリーズを掛け持ちして混乱してくる頃なので、役立てようと思っている。
あとはなんだろう。明日から授業だ。なんとか、88冊読みたい。できるだけ、ってところか。雨に振られてやんなるなあ。
10月3日(火)
用もなく会社に顔を出したら浜田さんにつかまり助っ人に。入らされる、じゃなくてあくまで自発的、なように端からは見えるだろうけれど、じつのところプレッシャーを感じていた。なぜか、なんのか、はよくわからない。杉江さんが「なあ、いい石鹸あるんだけど、買わない?」と商売を持ちかけてきたが、断れない性格だと思われているのだろうか。
酔いどれ小藤次シリーズ第五弾『孫六兼元』。すこしだれてきたところに、刺激が来る。付箋四カ所。
一。子供らと軽妙な会話。
二。浪々の身の気安さ。一人暮らしはよいものだと再認識。
以上はとくになんでもない。また、とくに付箋は付けなかったが気づいたこと。小藤次が、侍方にはときおり横柄ですらある口の聞き方をする一方、町人たちには丁寧な言葉遣いをする。これは見下したような者たちにはぞんざいに、見栄を張ることもない町人方にはおなじく腰の低い態度をとるともいえる。
このような態度を取れるというのも、小藤次の剣の腕と義理人情を知る心根が由来するだろう。
さて、付箋三。これは第三章冒頭のシーン。銭湯で刺客に襲われる小藤次だが、裸の上に素手、追いつめられて、さあどうするというところで、なんと気合い一発、相手を威圧して追っ払ってしまうのだ。
それはまあ、よいとしよう。百戦錬磨の老武士の一喝は、蓄積のない若い侍には剣ほどの威力を持つこともあると、考えてよい。はったりは武器なのだ。
だが、一つ疑問がある。
努張するのだ。一物が。
こういう緊迫の場面で、根性なしのが萎縮するのは、よくわかる。だから、むしろ努張した小藤次が豪胆者だと、それもわかる。
だがなあ。何しろ一物が努張である。若い刺客はそれを見て「不意に恐怖に見舞われた」のだ。なんだか、これはシュールレアリズムなんではないかと疑ってしまう。また、
男湯の騒ぐ気配が女湯に伝わったか、
「どれ、備後屋の隠居さん、酔いどれ小藤次の一物を拝ませておくれな!」
と声がした。
なんだなんだ、これは笑うべきシーンなのか? もうなにがなんだかわからなくなってしまったではないか。たぶん佐伯泰英で一番心に残ったシーンとなるだろう。
さて、付箋四である。長屋の主人が痴呆症になってしまう。まだ老人というには若い。娘は長屋の管理を任され、慣れないことごとに苦闘する。
問題はその元主人の描写である。これは、酔いどれ小藤次シリーズの枠組みでは、どうも理解できない代物なのだ。その枠組みの一つといえば、勧善懲悪であろう。ほかに下町の義理人情、というのも考えられる。だが、それらに照らしてみても、この元主人が痴呆症になる意味が分からない。意味を求めるな、との声も出そうだが、佐伯泰英のこれまでの著作を見ている限り、上記の枠組みに当てはまるものばかりで、それを逸脱するものが見られないからだ。つまりテーマを絞り、登場人物も絞り、ストーリーも絞られた無駄のない小説なのだ。ここにきてこの痴呆症の中年の男が登場したのが、なんとも気になる。あかんといってるのではない。この先の展開が待ち望まれるというだけだ。もしかしたら、そこに新たな佐伯泰英の境地が切り開かれるのかもしれない。
10月4日(水)
隠し球だ! 隠し球だ! 佐伯泰英がとんでもない隠し球を持ってやってきたぞ!
佐伯泰英現時点唯一の単発時代小説『異風者』だ。驚いたのなんのって。いままでこの著者の持ち味は豪快な剣劇と人情に彩られた世界を、じっくりと丹念に描いていくシリーズ物だと思っていたが、思わぬところに落とし穴、いや、この穴は読者を天にも昇らせる。あれ、昇天しちゃまずいか。
「異風者」とは、妥協を許さず権力におもねらない反骨精神に富んだ男を差す。これは「いひゅもん」と読む。しかしもう一つ同句異音の「いひゅごろ」という読み方が存在する。これは意味するところが少しずれていて、蔑む意味で使われる。権力に従うことがないということは、価値判断が権力からは遊離していることである。本書の主人公源二郎は「いひゅごろ」と呼ばれながらも剣一つでのし上がろうとする。しかし幕末という時代の波が源二郎のもとにまで及ぶ。源二郎は婚姻した女とその一家を惨殺され、仇討ちの旅に出るのだ。そこまでの経緯ですでに半分が過ぎている。幕末下の藩内争いの実情を細かく書いているせいだが、仇討ち旅がそれまでの退屈さを吹き飛ばす面白さだ。立ち寄った遊郭で路銀をあらかた使い切ることに始まり、じつに波乱と意外性に満ちた源二郎の身の上から目が離せない。
源二郎が実際に仇討ちを成し遂げるのは明治に入ってからである。そのような旧習を生きる目的としてきた源二郎は時代遅れを甚だしく感じ、もう棄てるかと考える。愛するものを喪い、あとは形骸化した仇討ちという儀式だけが残るのみだ。だが、源二郎は仇討ちを果たす。それは惨殺された妻たちの無念をはらすためというが、ほんとうにそうか。源二郎は妻を愛してはいなかった。思い出すのは自分を恨む妻の顔だ。
いままでのように速読が出来ない。それは一字一字を味わおうとするからで、それまでの佐伯小説には見られなかった重厚で濃密なストーリーが語られていくのだ。『孫六兼元』で痴呆症の男をどう読み取ればいいのかわからないと書いたが、それと同じようにこの作品はこれまでの枠組みを大きく逸脱している。
そこに漂うのは郷愁さえ許さない喪失感だ。源二郎は幕末明治の時代に飲み込まれていくという大きな話に組み込むことも出来ようが、それより抽象的な次元でこの物語は終結を迎えている。これは「過去の喪失を得る」話だ。喪うとは喪うを知るということである。喪うを受け入れるということである。いままで寄りかかっていた過去の価値に別れを告げる、それは脱力を伴っている。時間が経過するということは、老いも伴っている。傷が体にこびりつき、疲れ果て、過去とはっきり向き合うことのできた源二郎は次の時代をいきることになる。それは明治であり、明治に見いだす新しい世界だ。
10月5日(木)
まあとりあえず読んどこうということで、一日中読書。
吉原裏同心シリーズ『清掻』『初花』『遣手』『枕絵』。これでとりあえずいま出てるのは終わり。暫定完読、と名付けよう。
快調に面白い。安定感がある。まずはそんな感想。
六巻『遣手』で吉原から出て、信濃へ旅する。これは幹次郎だけ。ここで印象に残ったことを二つ。
あるおっさんを敵に回している。おっさんはやくざを雇っている。おっさんには娘がいる。娘はいい子だ。十代中頃というところか。娘は幹次郎らに父の助けを求める。あんな親だが、やくざに操られているのだ、と。そうして娘と計画を練るも、その娘がやくざ連中にさらわれる。行き先は父親もいるやくざの屋敷だ。
ここで、まず幹次郎らはなにを気にするか。答えは以下。谷平とは父のこと。
おけいの姿はなかった。
「(略)まず父親の下へ連れ戻されたと考えたほうがよかろう。谷平と一緒なれば、まず危害を加えられることもあるまいがな」(P247)
ここでいう「危害」とはなにか、わざわざ言うまでもないだろう。幹次郎らはそれからおけいの無事を偵察しに足を運ぶのである。そして、おけいは無事だ。その後もおけいの身に危険は迫りもしなかった。
さて、ここでなにを言いたいか。それは、佐伯泰英が読者の不安をいちいち丁寧に取り除いているということだ。無垢な少女がさらわれたとなれば、その貞操が危ないのである。あえてそこをうやむやにして、無事は事後報告でもよいのである。なにせ敵方の娘だ。そんな心配をすることは過敏症とでも言われそうだ。関口君っていつもそんなこと考えてるんだーへー、とか言われそうだ。ああやだやだ。
だけれど、これは「読後爽快感を与えるため」に書かれたものである。不安材料は、たとえ途中でも消してしまわなければいけない。それが佐伯泰英の書き方なのではないか。
まず「文学的」な話では、そんな説明的で言い訳気味の安全確認など必要ない、というか書いちゃいけない(独断)。不必要な回り道だからだ。それより書くべきことを優先させるからだ。
だが佐伯泰英はあくまで読者を娯楽へ導くために、解決しておくべきところは徹底して解決する。気になるところはきちんと処理をする。
そこの気の配りようが、なんだか愛おしいではないか。うざったいけれど。
さて、もう一つの印象残り。幹次郎には幾多もの刺客が送られる。裏稼業ゆえに。その刺客も、いつもいつも銭の亡者だったり悪の権現だけではない。愛する女との生活のためにやむをえず命を賭する者らもいるのだ。その者を切り倒したあと、幹次郎は自問する。なぜ戦わねばならぬのか。その答えは決まっている。汀女との生活を守るためだ。(286P)刃を持って生きねばならないということの、重みのある回答だ。
ここで破れ死ぬ犬塚という剣士の持つエピソードは「男と女の関係は千差万別」という言葉が体現されるこのシリーズにおいてすばらしい挿話となっている。このような話がもっともっと読みたい。
また巻末の菊池仁さんの解説は作家佐伯泰英をよく言い当てている。なるほど。
10月6日(金)
まったく読めなかった。かわりといっちゃなんだけど、映画を見た。欧州版でノーカットの『シャイニング』。
10月7日(土)
神保町へ探しにいく。しかししかし、なんということか天下の神保町、驚きの結果。
ない!
ない、ない、ない!
一冊もない!
私の探し方が悪かったのでしょうか。それにしても一冊もないなんて。二時間かけて一通りの文庫は探し尽くしたのに。くう。
まあそれなりの収穫はあった。竹宮恵子の初版本とか、ヨーロッパ風の本屋を発見したとか、触れると奇声を発して威嚇するおじさんとか(いっぱいいた)。
いったん学校に行って授業を受けてから、早稲田青空古書祭に行こう、としたらもう終わってた。あ、そうだったっけ。消沈して再度早稲田古書店街をまわるも収穫なし。そのごブックオフ周りをして帰る。
酔いどれ小藤次シリーズ第六弾『騒乱前夜』。なんだかいわくありげなタイトル。なぜかちとバランスを崩して、第二章が四でおわらず五まであり、ページも十ページほど多い。どうしたんだろうか。このシリーズも暫定完読。最後に倒した敵から赤子を委ねられ、世話をすることになる。その後の展開が楽しみだ。戦う場面より、生活感がもっと出てくればいいなあと思う。
人情味とチャンバラの迫力に満ちた酔いどれ小藤次シリーズ、もっと読みたいぞお。
10月8日(日)
朝ブックオフ周りをして、なんで350円のを買うと次の店で105円で出てくるかなと因縁をつけながら帰るとまた読み出す。
秘剣シリーズ『秘剣雪割り』『秘剣瀑流返し』『秘剣乱舞』『秘剣弧座』。いままでのとかなり毛色が違っている。主人公の一松がめちゃくちゃ荒々しいのだ。通称悪松。簡単に人殺しは働くは、遊女にも容赦はしないわ、歯向かう敵は百パーセントの力で叩きつぶすは。その亡骸から財布の中身を抜き取ることも忘れない。
その分、スピード感がある。はやいはやい。一松が林の中を駆け巡るシーンには、「一瞬の風になれ」を読んだ杉江営業ではないが、走りだしたくなるエネルギーにあふれている。
とにかくパワフルな一松は死戦をモノにしながらどんどん強くなっていく。その成果が秘剣である。一冊ごとに一個、会得していく。今度はどんなのがくるのかわくわくしながら読んだ。
ストーリーも考えがめぐっており、なんと天下の御老公水戸光圀公が登場するのであるしかもちょい役ではない準主役とも言えるぐらいである。なんと大胆な。主人公に触発されたか、光圀の固定したイメージを、ぶっこわしはしないで、うまく塗り替えている。
一松の内面の成長、というか変化、そんなものはどうなっているのか。これは読み進めていけばよくわかるが、はじめは荒削りな人物像が、だんだんと親しみを持てるようになっていく。つまるところ丸くなったということだが、まあそれもいいだろう。三巻では「迷惑をかけたようだな」なんて殊勝な言葉を吐きやがる。ちがう人物のセリフではないかと、正直目を疑った。しかし流れからするとおかしくもない。それはやはり愛する女やえの登場がすべてだろう。
やえと彼女の故郷に家を構えて、守ることを知るかと思いきや、こいつがなかなか守勢に転じないのもまだ魅力をたもっている理由だ。
でも平和な瞬間の尊さは、ほかのシリーズに劣らず、独特の鮮やかさをもってここにある。そこが佐伯先生のうまいところですな。剣と平和は表裏一体。だからこその苦悩が、物語の原動力だ。
現時点で、半分経過。あと二週間で、全制覇には、現時点21冊だから、えーと読本2冊抜かして、67冊。ひゃあ。
10月9日(月)
体育の日なのでパリーグプレーオフを見る。面白いなあ。なかなかの盛り上がりだが、日ハムの選手はかわいそうでもある。
古着屋総兵衛シリーズ『死闘!』。極太だ。400ページもの量で、内容もなかなか複雑。もちろん登場人物も豊富で、前半は脳みそがぐつぐついってた。じっくり読めばいいのだが、ペースは落としたくないので、なんとか読み進めた。すると後半に至り、敵方の人物らがばっさばっさと斬り捨てられていく。通常と違う意味で爽快だった。
いやでも、こんがらがった糸を解きほぐすためにはどれかを切っちゃえばほどけるし、こういう小説でもその原理が活きてるのかもしれない。そしてまた新たに糸を加えていって、ばっさばっさと斬り捨てる。だけどその糸の所在がわからなければ切りようもないし、一緒くたに切っちゃいけないのまで切っちゃっちゃああかんわけである。ミステリーなんかは切らずにほぐすのがまたもどかしくて快感なんだろうなあ。これは爽快感を直接的に求めてるから、むしろその切り方を味わう。因縁が絡まれば絡まるほど、「す」っと解けたときのカタルシスは大きい。
というわけで、今回はあまり絡まり方を把握せずに切ってしまった。切った後に「ああ、こうなってたのね」とわかったぐらいである。次はもっとちゃんと、と思うが、なにせこのシリーズは極太……うーむ。
10月10日(火)
今日は助っ人のツメツメの日であり、また中日が優勝しちまうもんだからせわしなくていっさつも読めなかった。反省。
10月11日(水)
朝起きると午前九時半。あ。今日は九時からの講義が二コマ入っていたのだ。しかし今から行っても一コマ目は駄目だろうし、二コマ目はたしかはじめの挨拶的なものだったはずだ。
なら、いっか。
そのまま布団にくるまって佐伯泰英を読み出す。
古着屋総兵衛シリーズ『異心!』。このシリーズは、なんともぶっとい。密なストーリー展開に、多層な登場人物、当時の歴史とも深く結ばれた物語は、なんだか全体重々しい。これで400Pなのか、これだから400Pなのか、わからない。
しっかしこれ、裏面見て驚いた。本体価格590円! 一ページ当たりの価格が他と比べて雲泥の差だ。徳間文庫恐るべし。
さて、第二作目となった『異心!』だが、なんと今回は忠臣蔵を題材にしている。じつはぼく、忠臣蔵は読んだこともないし観たこともない。だからじっさいどうなのかはよくわからないが、個人的には面白かった。最後にどっと敵方をやっつける手口は前回と同じ。これからも踏襲されていくのだろうか。大筋に挟み込まれるドラマもなかなか味わいのあるもので、うーん、徳間さんは値上げを考えていないのだろうか?
10月12日(木)
昼、高井戸図書館に行く。ついでに古本屋まわり、主にブックオフだが、そこらのブックオフの佐伯本は吸い尽くしてしまったので、もはやからしくである。下高井戸の店で三冊、得た他は個人的に買った本だけである。もう定価で買うしかないのか。神保町も早稲田もなめ尽くした。最後に明日、原宿のブックオフにでも行くか。
無駄が多い、なんて言われないんだろうか?
そう思うほど反復が多い。というのも、記述が進行しないわけでなく、説明を加えるためなのだ。前に登場した人物が再び出てきたとき、または知っている者が知らない者に出来事を伝えるとき、前のページに遡ればわかる事どもを、わざわざ説明してくれる。「なに、若様が大堀で大黒屋の衆にかどわかされたと?」というセリフも(これほど露骨でなく)あるし、地の文でもある。
これは、一気に読む時間が取れない読者には大変ありがたい。いちいち戻ってらんねえよ、というもんである。必要なところ、忘れてそうなところ、そこを的確に説明している。
また、それだけでない。私は速読ができないので、ペースを早めると飛ばし飛ばし読んでしまうのだが、それでも筋がわかるのである。これはいかなることか。
繰り返しではない。それは、ちがった言葉で、同じ内容を、重層的に重ね合わせているという事だ。パイのように。だから、重なる部分の一部を読めば話の流れが把握できるし、読めば読むほど描写が深まっていくのである。その意味で、辺りに脱線せず、中心をはずれず、まとまりのある、無駄のない文体と言うことになる。あれ? 無駄がないじゃないか。じゃあ、いっか。
古着屋総兵衛シリーズ『抹殺!』『停止!』。いやはや、なんということか。前二冊にでてきた、主人公の許嫁千鶴が殺されてしまうのだ。驚いた。しかも、総兵衛の怒りは激しいものの、展開はさらりと流れ、沈殿する事はない。もっと執着しないのか? このシーンに。ただ驚くばかりだ。
次の『停止!』では、いままでにない新鮮な人物が出てくる。以前総兵衛に闘いを挑み破れた女剣士美雪である。総兵衛のピンチを救い、かくまった美雪はもはやどこの藩にも属していない。個人として総兵衛と戦いを挑むのだ。しかし総兵衛は傷を負い、その治療には美雪が当たる事になる。敵に塩を送るというかなんというか、この関係はどこかで見た事がある……これは……そうだ! ベジータだ!
というわけでベジータは総兵衛の看護をし、傷が治ると、再び剣を交える。
美雪の流浪の剣士になった経緯も語られ、これからは重要な人物になるだろう。通しのライバルというのはどのシリーズにも必要なのだ。
10月13日(金)
本日は学校が六時に終わり、まだ時間があるという事で高田馬場と原宿のブックオフに向かう。あ、山手線ね、と思われたろうが、自転車である。明治通りを走った。高田馬場にはなし、原宿にも一冊というさんさんたる成果。
古着屋総兵衛シリーズ『熱風!』。設定がぴか一。江戸の奉公人の小僧たちが伊勢神宮へ大量ぬけまいりに行ってしまうというもの。その数たるや江戸経済を麻痺させるほど。その異常な事態に総兵衛らも動くのだ。
この作品には佐伯作品で初めて超能力が登場する。その能力とともに重い重い運命を背負ってしまった少年栄吉の物語である。ここで超常現象的なものは時代小説には合わないのではないか、という意見もあるかもしれぬが、わたしは特に気にならなかった。それもありかな、と思った。それより、ほんの小さな超能力にひれ伏してしまう人間たち、それが数をもったときの恐ろしさのほうが印象に強い。
ラストに栄吉が「ほんとうのこと」を叫ぶシーン。ダムが決壊するように、感情がほとばしった。傑作だ。これを単品で読んで、十分楽しめる。佐伯泰英の心配りに感謝しましょう。
10月14日(土)
起きたら12時だった。六時に帰ってきて、うどんくってすぐ寝たのだった。
古着屋総兵衛シリーズ『朱印!』『雄飛!』。『朱印!』にははじめて人物評がついていた。海外ミステリみたいだ。この二つの作品のあいだで、同じ徳間文庫ながらポイントが大きくなり、字組が17行×40字から15行×36字に変わる。字数で言うと680字から540字、約二割減である。どういった心境の変化か知らん?
さて、ベジータの身の振られ先が決まった。女剣士美雪は鳶沢一族の一員となり、そして許嫁を喪った総兵衛の妻となる。妻! その手があったか!というかんじである。まあいいんだけど。
いま出たついでに鳶沢一族について一言。一族の枠で囲った村があるなど、ポーの一族を想起させてロマンチックである。それは歴史を持つものらのロマンである。
そういえばこのシリーズは装丁がころころかわっている。最終的に落ち着いたのが一番いいなと思った。
もうひとつ。今までのシリーズは孤高の剣客の闘いが書かれていたけれど(支えてくれる人はいるが、闘うのはほとんど主人公だけ)、これは一応総兵衛という主人公を置いているが、その部下である鳶沢一族のめんめんも江戸の街に限らず縦横無尽に活躍する。これが痛快だ。個人競技はストイックでかっこいいけど、チーム戦のほうが面白いもんなあ。たとえば駒吉。これは若さ余った元気はつらつの小僧だったが、話の中で手代に昇進。功を焦るという面が、失敗にも繋がり成功にも繋がる、いわばギャンブル的な存在だ。総兵衛は部下の中で駒吉を一番に気にかけている。その成長をみるのもいいが、総兵衛が長であるにもかかわらずつい駒吉を甘やかしてしまうという、愛情のありかたがいい。死とすれ違う闘いの中で濃密な関係を重ねていく、一族全員の闘いの物語でもあるのだ。
夜、唐十郎の芝居を見に井の頭公園へ行くことにする。ついでに近辺のブックオフでも洗うかと早めに出かける。
まずは荻窪。なし。吉祥寺へ行く途中、古本屋を見つける。漫画専門のようなので期待はできないが一応入ってみる。あった。二冊、ちょうど探していたものが二つともあった。たいして多くもなかったが、そのなかでこれらが発見できたのはなぜか。ラッキーとは思わない。なぜなら、いままで数十件の古本屋・ブックオフをまわって、まったく見つからなかったからだ。そんなはずはない。しかし、同じシリーズのものは目がいたくなるほどあるのに、その二冊だけがないのだ。鎌倉河岸シリーズの第四弾と第六弾だから、それだけ少なく刷った、というのも考えにくい。じゃあめちゃくちゃ面白くて手放されない、かというと、いままでの経験上それもないと言えよう。佐伯泰英は安定感がウリだ。
と、いうことは。どこかにあるということである。博打で敗者がいればかならず勝者がいるように、どこかに溜まっているのだ。
その確信があったから、いつかは見つかると思っていた。予想以上に時間がかかったが、まあよしとしよう。
さて、この購入で、佐伯時代小説文庫は、とりあえず全部そろった。とりあえずというのはまだ密命シリーズの、読本がないのだ。本編ではないので別にいいのだが、前出の鎌倉河岸の読本はあるので、揃えておきたい。その二読本を入れて、全部で90冊になるはずだ。しかしそれも2006年9月現在で、もはや91冊か92冊になっていることは必定であろう。いつまでも追いつけないのではないだろうか、という不安がある。
いや、追いつくとはなにかときちんと考えると、それは佐伯氏が筆を置くまではありえないのだ。いま現在同時刻、佐伯先生が書かれている原稿は目に入らないわけで、完璧な並走も出来ないし、ましてや追い抜くことも出来ない。もし触れることができるとしたら、それは一瞬の点であり、その点ですら次元違いのものだろう。いつか、佐伯氏が筆を置くことがあるとしたら、そのときわれわれ読者はどうするか。どうすればいいのか。先行者をなくしてしまい、そうなるともはや新たな道はない。もう次の一歩を踏み込めないのだ。残されたものはただ黙然と反転し、偉大なる舗装路を走るだけである.そうしてはじめて追走のかけがえのなさを知るのではないか。
話がだいぶそれた。ということで、密命読本を探し、西荻窪や吉祥寺の古書店を回った。が、当然ない。こればっかりは刷り部数が少ないだろうし、買った人は手放さないだろう。すくなくともまだ。
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「関口鉄平 佐伯泰英完全読破日記」
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