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10月15日(日)
古着屋総兵衛シリーズ『知略!』『難波!』『交趾!』『帰還!』。
佐伯泰英は言う。現実を直視するのもわれわれの務めではあるとしながら、「『交趾!』が一瞬の現実からの逃避、元気の回復薬になればれに勝る喜びはない」
ここまではっきりと言い切られると実に爽快。なかなか自分の小説を「現実の逃避」とはいいませんからね。ここらへんの割り切りのよさが佐伯泰英の筆の走りに影響してるのでは、というのも変か。あまり大量に書かれていなかったときの作品も読まなければそこのところはわからないだろう。読む気はないけどね。
『帰還!』(これだけなぜか印刷のインク
が薄かった)で第一部完となった。全十一冊である。
作者自身、「物語のあちらこちらに破綻がある」と言っているので(謙遜かもしれないが)、細かいことは気にせずそのスケールの大きさを味わいたい佐伯時代小説一番の奇作である。はじめからが望ましいが、『熱風!』から入るのもいいだろう。
10月16日(月)
佐伯泰英は「密命」シリーズが時代小説デビューだと思っていたが、同時期にもうひとつ書いている。『瑠璃の寺』である。
長崎絵師辰次郎シリーズ『悲愁の剣』は、それを文庫化したものである。その続編は文庫書き下ろしで『白虎の剣』となる。
さてこの二冊だが、両方の解説を受けている細谷正充さんが元気いっぱいで読む気をそそる。佐伯時代小説にあって、一番似合った解説ではないか。
さて本編だが、字数も多く、それだけでなく行替えも少ない。やはりはじめのころは慣れないところもあったのだろうか。それが独特でいいかもしれないが、ささっと読みたいほうとしてはスピードダウンが痛いマイナスポイントだ。
比べてみると、なかなか顕著なのが剣劇シーン。それまではなにげなく読んでいた最近の佐伯時代小説が技巧的な作品なのだと気づけたのは収穫だった。
行替えのタイミングがうまい。一連の動作の開始点で替えるのだ。すると「お、来るな」というのが読者にもわかる。文中に埋没して見逃すことがないのだ。動きだし以外にも、音、声、そして勝負の決する瞬間と、要所要所で盛り上げ引き込み、かつ勢いを削がないように注意されている。ううん。うまいぞ。
いささか固い『悲愁の剣』であるが、その分テーマをふんだんに盛り込んであり、作者の意気込みを思わせる。難をいえばやはりチャンバラシーンで、どうもスピードがでないのと、画がうかばないことである。動きのあるシーンがいまいちであったが、絵師を主人公にしているだけあって、描かれた絵は見事に描写されていた。動きという課題も、すぐにクリアされていくのだが。
続編として書かれた『白虎の剣』であるが、これについては申し分ない。言うとしたら、ぎざぎざに研がれた刃を例えるのに、現代のパン切りナイフやステーキナイフを思い出してほしい、と書かれているのが、なんとも浮いていて、どうしてもこういう書き方は気になってしまう。いっそのことこれをメタ的に笑いにすればいいのに、っていうわけにもいかないか。
さて、次は大長編シリーズ。
居眠り磐音シリーズ『陽炎の辻』である。長い。長過ぎる。四年前の春にこれを書き、いま現在19巻。なにを考えてるのかこの人は。一シーズン一冊の割合である。とすると、もうそろそろ秋号が出てもおかしくない。わああっ。
失礼、取り乱しました.では神妙に読んでみましょう。
主人公、磐音がこれまでにない侍である。最後まで闘うのを避けようとするのだ。敵に「今日のところは黙って引き上げないか」などと提案するお人好しなのである。おそらく眉は八の字である。やだなあ。早く帰りたいなあ。こんなことやめて飲みにいこうよお、と、そこまでは言わないが、相手はそんな風に嘗められたと感じるだろう。
それが剣法にもあらわれる。まるで眠っているように、相手の攻撃を受け、受け、受け通すのだ。それでもいつかは攻めなければならない時が来る。まさにその時が本書で語られるのである。第一章で繰り広げられる騒動は、磐音の運命を大きく変えてしまう。大長編シリーズの幕開けにふさわしい名篇である。
磐音は秘剣シリーズの悪松と正反対の男とも言えるだろう。女性ファンがつきそうなやつである。
物語が進むにつれ、磐音もスレてくる。あくどい金貸しの屋敷へ乗り込んで値切るシーンは爽快で笑える。剣をちらつかせて「今日のそれがしは包平を抜きたくてしかたがない」とおどすのだ。これではどちらが悪いやつなのかわからない。
10月17日(火)
居眠り磐音シリーズ『寒雷ノ坂』『花芒ノ海』『雪華ノ里』『龍天ノ門』『雨降ノ山』『狐火ノ杜』。一冊平均二時間弱くらいで読む読む。
一気に読んでみて気づいたことは、これらの共通点として読後感が爽やかであるということだ。それはレモンの香りがするというより、口溶けがさらりとして残らない、無味無臭の爽快感であると言える。
もうひとつ気づいたことに、物語の成立の条件として、当時であらねばならないものがいくつかある。たとえば武器が刀であったり、舞台が吉原であったり。とくに多いのが「情報伝達=足の速さ」であるということから作られる物語である。足とは人足に限られず馬であれ船であれ、とにかく情報とは人間に付随して伝えられるということだ。この点が現代の情報化社会との大きな違いであろう。ささいなすれ違いでドラマが作られるのは、もう過去の世界でしかないのである。逆に言うと過去の世界はその特性を大いに活かせるのである。
今の目から見ると、まどろっこしくて仕方がないであろう。これは何かに似ていると思ったら、あ、純愛ドラマではないか。男と女のあいだには愛があるのにそれを通じさせない幾多もの艱難、ディスコミュニケーション。じらすことで、それほど大きな達成でないにも関わらず、徒労感を達成感に置換させられる。ドラマ作りの技法のひとつである。
佐伯時代小説のなかであると、それが大いに生かされているのが古着屋総兵衛シリーズの『熱風!』である。
さて読んだものについて。『花芒ノ海』の212ページ。
「行くぜ!」
野分の勝五郎が律儀に言うと、突っ込んできた。
なんてことはないチャンバラシーンであるのだけれど、この違和感はなんだろう。なぜに「律儀に」などという、自傷的なことばを使ったのだろうか。なにか(平坦な言葉しか使わない時代小説など)を皮肉っているにせよかなりの捨て身であり、時おり見せる佐伯氏の乱れがここにも見られる。気になる。どうしたんだ佐伯泰英。
もうひとつ。この主人公磐音は江戸でひとり浪々の身で暮らしていくのだが、誰かに似ている、あっ、酔いどれ小藤次だ。
そう、この小説にも生活感があふれているのだ。命のやり取りをしたすぐあとに、近所から魚などをもらって「これで菜ができた。あとは飯を炊くだけでよい」などと考えている。両者とも生の確かな営みとして描かれている。この緊張と弛緩の抑揚が非常にうまい。
そしてそこに出てくる食べ物がとてもおいしそうなのである。この生の実感は、緊迫した命のやり取りに支えられているというよう。
それにしてもこのシリーズのタイトル、おぼえにくいなあ。
10月18日(水)
最近、昼寝をするとかならず見る夢がある。本を読んでいる夢だ。
「夢の中でも本が読めるなんて!」
という中毒者もいるだろうが、自分はそうではない。これが苦痛なのだ。なにが苦痛なのか。読んでる気がしないのである。読んでも読んでも、内容が頭に入ってこない。言葉が頭上をすべっていって、つかもうとしたら次の頁をたぐっている。でも前の頁に戻ることはしない。できない。なぜなら夢だから。夢は反復不可能なのである。
というわけで、さらさら休めた気がしないまま起きることになる。そうして寝っ転がったままの体勢で、手を伸ばし佐伯時代小説を手にとって、枕と座布団を顎の下にのせうつ伏せって読み始める。流れるような動作。
読みはじめはさすがに頭がぼうっとしているけれど、一二分すればすっきりして読める。すいすい読める。ああ、これが読書なんだなあと感慨すら湧く。読書は現にかぎるのである。
居眠り磐音シリーズ『朔風ノ岸』『遠霞ノ峠』『朝虹ノ島』『無月ノ橋』『探梅ノ家』。
以前に書いたことであるが、主人公が絶えず追っ手に追われているのがシリーズを通底し、それが続き物の一貫性と緊張感を醸し出している、というのがあった。たとえば酔いどれ小藤次シリーズなどは初巻の事件をずっとひきずったままであるし、交代寄合シリーズも身分の出自に関わる異質な事件が物語を引っぱる原動力となっている。
さて当シリーズもこの手法を用いている。だが、少し毛色が違うのだ。『遠霞ノ峠』の文庫裏あらすじを引用しよう。
「菜の花が咲き誇る江戸を春色が包む頃、深川六間堀、金兵衛長屋に住む浪人、坂崎磐音は日々の生計に追われていた」
生計かよっ!
何気ない文章に隠されたおかしな文言に思わずツッコミをいれてしまったば、よくよく考えてみるとそれもしかり、このシリーズの特色と言えるのである。
その兆候は『朔風ノ岸』から見られる。P192である。
敵方に忍び込んだ竹村と、磐音と柳次郎が刀を交わす芝居を打つ場面がある。そこで柳次郎と磐音が言う。
「これでは村芝居にも劣りますね」
「なんだか安っぽくなりましたね」
これ以降、緊張感が切れてしまって困った。それは数章続き、次の巻になってようやく勘を取り戻して、剣劇シーンも読めるようになったのだが、なにか余韻が残っている。
これは生活感をしばしば描きだしているところから酔いどれ小藤次ものと類似する、と前に描いたが、異なる面はここだろう。どこか抜けているのだ。ゆるい。それはやはり、追われているのが追っ手ではなく生計だからであろうか。
上手く差異化をはかっているとも言える。酔いどれものは荒々しい印象があるので、読者もそれを好んでいるのであろう。
この大長編がつづいているのもあるいはこの抑揚のおかげなのかもしれない。
10月19日(木)
継続は力なり。去る者は日々に疎し。そーんなことわざがあるのであるが、これは真である。なぜなら怒濤の勢いで書きまくっている佐伯泰英の時代小説が売れるからである。読者を飽きさせないように、毎作品の工夫を凝らすのは大切であるが、氏はそればかりでない。読者を待たせないのも大切だ。これは丼ものチェーン店がサラリーマンを中心に受け入れられている図式と重なる。やはりおっさんなのだろうか。
さてさてここんとこ早めに読んできたのだが、それでも時おり立ち止まるところがある。そうすると決まって人情濃厚にして面白い物語であったりする。一章15分前後で読んでいるが、こうなるとまったくの遅読、2、30分かかってしまうが、まあいいか。
居眠り磐音シリーズ『残花ノ庭』『夏燕ノ道』『驟雨ノ町』。
『残花ノ庭』ではラストのまさに花散る庭でのシーンがよい。磐音と父が会うのであるが、ここが舞い散る花びらに彩られて実に美しいのである。古風の美というか、このような日本家屋の美は時代小説ならではであろう。ここで磐音がふと思う、ずいぶんと遠くまで来てしまったという感慨が身にしみる。かつてのやさしい花びらが思い出されるのだ。
最後の四行、磐音は父に襲いかかる刺客を倒した後の六行が秀逸だ。
血の臭いが薄く漂い、死の気配が広がった。
「磐音、そなたは」
と正睦の声が響き、磐音は、
「父上、お駕篭へ」
と答えると包平に血振りをくれた。
どこからか残花の花びらが一枚二枚、はらはらと戦いの辻に落ちてきた。
父と子の、目指す道は同じなれど、住む世界が違ってしまった、その瞬間だ。磐音は一人血をくれるのである。
戦いの辻におちてきた花びらはもうかつての花びらではない。時は過ぎ、すべてが塗り替えられていく現在の進行なのである。その一瞬のはかなさを、見事にあらわしている。
『驟雨ノ町』。これはよくまとまった作品として読める。古着屋シリーズでいう『熱風!』だ。
ここで磐音はついに、おこんの気持ちに答えるのである。一途に想いつづけてきた奈緒は、もはや手の届かない所にいる。それでも見守り続けることが、磐音の愛の形だった。そう思っていた。
だがここでも時の非情か恩情か、まわりは変わっていく。それに伴い変わらぬ思いがあるのかどうか。磐音は一途な気持ちが、おこんに揺さぶられていたことを認める。そしてその気持ちに答えるのだ。
同時に幸吉の身辺にも動きがある。幸吉は鰻屋の下働きをしていた少年だが、やがて成長し、鰻屋で小僧として奉公することになる。そこで彼は壁にぶつかるのだ。本格的に大人の社会で働くことの厳しさ、それに幸吉は苦しむ。ついに逃げ出してしまうのだ。
もう人ごととは思えずハラハラどきどき。江戸時代なんて遠い遠い出来事なのに、こっちの胸にも迫りくるものがあるのだ。これはおっさんばかりに読ませるのはもったいない。全国の少年少女よ、いま時代小説がナウいぞ!
これはあくまでも磐音が主人公の物語だが、こういうサイドストーリーが思わぬパンチを食らわせるので油断ならない。
またこの書がまとまりを生んでいるもうひとつに、核となる話が二章に渡って語られるのだ。これが盗賊の身内揉めの顛末なのだが、きっぱりとした悪役だけでなく、境目があいまいな悪役や、またもや登場竹村武左衛門さまの根性なしっぷりにくわえてその卑しさときたら! こんなやつをよく仲間にしているもんだ。まったく成長のかけらもみせない武左衛門さまはしっかりと異質な地位を確立している。ポップやマサオくん、ミスターサタンなどでは太刀打ちの出来ない駄目っぷりである。どうなる武左衛門! どうする佐伯泰英! 今後の去就に注目が集まる。
10月20日(金)
居眠り磐音シリーズ『螢火ノ宿』『紅椿ノ谷』。
『螢火ノ宿』にて、ついに白鶴太夫こと磐音の元許嫁奈緒が、身請けをされることになる。遊女が身請けをされるというのは、つまりその旦那の妻もしくは愛人として一生をささげるということだ。白鶴太夫はある商人の妻として身請けされるというのだ。
道を違ってしまった二人は、もう元には戻れない。その決着がここでみられるのだ。なんとも切ない。一週間で一気読みした自分でもこうなのだから、五年に渡って読んできた読者の感情の高ぶりはいかほどのものだったろう。
『探梅ノ家』あたりからだったか、季節の風景を映して幕を閉じるラストが使われてきたが、『螢火』では番いの螢に去り行く想い人への名残を託して物語を終わらせている。つらい別れのシーンを、見事にすっきりとした読後感へと昇華している。
『紅椿ノ宿』で磐音とおこんがついに結ばれるのだが、ここで少し不安になったのはおこんの娘らしい気性が失われてしまうのではということである。江戸は下町を舞台にしたこの小説は、楽しい掛け合いによって支えられている所が大きい。その中心人物がこのおこんであった。この巻ではおこんはじつに色っぽく描かれているのだが、そっち方面にはいってほしくないというのがファンの気持ちである。あれ、私はいつからファンになったのか。まあいいか。
クレヨンしんちゃんをみつつ、やっぱりこの間合いだよなあと感心していると眠くなってきたので寝る。
10月21日(土)
起きて時計を見る。7時30分。あれ、クレヨンしんちゃんが始まる時間じゃないか。寝てなかったのかな? そう思って窓を見ると、朝である。ということは、自分は12時間も寝ていたということか。おそろしい。この前会社でたくさん寝すぎるのはよくない、六時間くらいで十分だそうだ、と聞いていたので、これはまずいとそのくらいに押さえていたのだが、今日に来てリバウンドしてきたのだろう。一気に倍かよ。眠くなる病気もあるという。なんだか不安な朝であった。
居眠り磐音シリーズ『捨雛ノ川』『梅雨ノ蝶』。
タイトルがどんどんよくなっていく。いままではシンプルな繋がりだったのが、とくにこの『捨雛ノ川』などは物語内での役割としての捨雛と川が、幸吉らの成長を託された比喩としてうまくまとまっているのだ。情景もまざまざと浮かんできて、このタイトルだけで目が潤む。
また『捨雛』では脇役の脇だった人物が思わぬドラマをひっさげてくる。これまではストーリーは外からもたらされてくるものが多かったが、このように既出の人物を用いると人間らに深みがまして味わいが出てくる。幅を広げるのもいいが、いいキャラクターがたくさんいるのだから、もっと掘り下げてもいいかもしれない。とくに武左衛門と柳次郎の絆を過去に遡って読んでみたものだ。
さて、居眠り磐音シリーズは『梅雨ノ蝶』でひとまず、えっーと、そう、暫定完読。日記をさかのぼって調べちゃったよ。また次がすぐ出るだろうけれど、おお、次はなんと第二十巻! 佐伯シリーズ物初の大台である。期待して待とう(本音は次のが出る前にこの企画を終わらせたいのだが)。
読み返してしまった。
居眠り磐音シリーズの第一巻『陽炎ノ辻』である。
いや、ちょっと気になることを調べてみただけなのだが、いつのまにか引き込まれてしまった。再読が好きな性分というのもあるが、これはじっさい傑作である。面白い。なんでいま気づいたのか。いろいろと見落としてきた所がある。というより後の巻をよんで目に付きだした、というところか。
まず磐音が深川の人々と出会うシーンそれぞれとそれぞれの出会い方をしており、なかなかに感慨深いものがある。とくに柳次郎と武左衛門とのファーストコンタクトが、目立たないシーンなのでかえって印象的だ。こんな登場の仕方じゃあ後の重要人物だなんて気がつかんわなあ。名無しの道場浪人として書かれた二人はもう情けないの一言。磐音に窮地を助けてもらうところから始まる。これはなんの縁ももたない磐音がこの町に来て、まず生きていくためには、手っ取り早く活躍が必要なのであり、そういう意味ではご都合主義という感もないわけではない。しかしここでの二人の描かれなどはその後にも通じるものがあり、シリーズを通じて矛盾をはらんでいないという面でよくできている。初巻は重要なのだ。
読み返して気づいたことで、ストーリーはもうわかっているのに、面白かった。次はどうなるんだろう、という気持ちが自然と湧いて出たのだ。多少読み抜かしてきた所もあるが、覚えてるシーンの直前でもハラハラドキドキした。なんなんだろう。
鎌倉河岸シリーズ『橘花の仇』。
いままでの主人公は剣客であったが、ここでそれが一転、町人が物語を紡いでいく。まず気になるのは、この捕物小説をどうやって解決に導くのか。いままでは最後にはその剣で悪を断つ、という常道を踏襲してきたが、鎌倉河岸の主人公は与力の宗五郎と、あとは剣も握ったことがないような少年三人である。この政次、亮吉、彦四郎がいったいどのような活躍を見せるのか。力でねじ伏せてくる相手にどう立ち向かうのか。作者の腕の見せ所である。
物語の筋はそれほど込み入ってはいない。だが、なぜか頭がこんがらがる。これはいかなる事態か。もはや我が時代小説血中濃度が飽和点に達してしまったのか? そのように訝ってみたが、どうも原因は話の展開にあるようである。
まず他との違いで目につくのは、説明の繰り返しの少なさであろうか。後になって解決篇のような形式を取り入れていくのだが、それを含めても筋を塗り重ねていくことが少ない。作者がちがうのではと表紙を見直したほどだ。いままでと同じ読み方では筋がわからない。初めはかなり戸惑った。難しい話ではない。底にあるのは同じ、事件から浮かび上がってくる人情模様だ。そこが読みどころであり、この鎌倉河岸という舞台を彩る人々、という大きな見方も出来る。時代と場所と人、これらの重なるタペストリー。
ラストに事件の全貌を明かすという形も、リーダビリティという面では効果的なのかもしれない。でも自分には固有名詞とか地理描写とかは苦手なのである。とくに人物名。なんとか屋なに兵衛とかなになに越後守とか、ぱっとみでわからない。覚えてない。
だから目黒さんからもらった『「鎌倉河岸捕物控」読本』が役に立つ。細かな地図から登場人物紹介、年表にシリーズ全解説と至れり尽くせりである。複雑な展開を見せる鎌倉河岸にこそ有効な読本である。居眠り磐音シリーズはこれより長いシリーズだが、読本というのは作られないかもしれない。直線的な物語だから。それにたいして鎌倉河岸は並列と言う感じか。
まずはじめに大きな事件が発端され、各章に別の事件を織り交ぜつつ、平行して解決に導くという形を取っている。だから一話一話が独特の位置づけをとっているのだ。いままででも大きな事件を背後に持って、というケースがあったが、鎌倉のように一冊できちんと解決するのではなく長引かせるものであったので、大河のようにゆるやかに話が進んでいた。しかし鎌倉河岸ものはきちんと事件全体を一冊で解決するので、通常なら慌ただしくなる所であろう。実際はそれほど急いだ展開ではない。じゃあなにか。
量が多いのである。まずページ数が多めである。六章分けで、各60頁前後ある。それだけなら居眠りシリーズとおなじくらいだが、一ページ当たりの文字数が多い。時が小さく、ぎゅうぎゅうに詰まっている。あとなんかインクが薄い。颯爽としたフォントである。
いや、これはハルキ文庫のいいところでもあるのだ。価格はそれほど高くはないので、割安ですらある。でももうちっと目の疲れてるおじさんに親切にしてほしい。時代小説は一頁600字以下がいい。
で、まあそういう具合で物語は余裕を持って進められる。複雑にして濃厚なシリーズなのである。
ほかに気づくのは、事件背景を緻密に書き込んでいるところだ。剣豪小説より探偵小説の要素が強いので、解決へ至る糸筋をたぐる、その動きが重要視されるのだろう。佳境で敵地に踏み込むシーンもあえて解決篇で登場人物らに語られる。ここがちがうのだろうか。剣豪小説は締めの豪快さを、捕物小説は道筋をたどる緻密さを楽しむもの、と言えるかもしれない。
10月22日(日)
鎌倉河岸シリーズ『政次、奔る』『御金座破り』『暴れ彦四郎』。
三部作と言えそうだ。政次、亮吉、彦四郎の三人をそれぞれ中心に据えた三作である。なかでも亮吉の「成長痛」を書いた『御金座破り』がいい。もっと青臭さを読みたいものだ。
午後一時半、友人のライブを見に千歳烏山へ向かう。よく晴れた日なので布団を干していく。ライブは盛況、打ち上げもそのカフェで行う。そこで同じサークルに属していたHさんと話す。最近読んでいる本の話になって、通じないかもしれないがと思いながらも佐伯泰英の名前をだすと、「おお、ぼくも大好きだよ」という反応。こんなところにいたのかと驚く。いわく時代小説はよく読むほうで、たまたま本屋で佐伯フェアを見つけて手にとってみたのが馴れ初めだという。その魅力は?と聞いてみると、即答。
「主人公がかっこいい」
なるほどである。いままでそういう風に考えたことがなかった。かっこよさ、大切である。魅力的な主人公でないのに、続けて読んでくれるわけがない。しかもこれは主に中年男性読者を対象としているのだから、男の魅力を抜きにしてはあかんではないか。おっさんは男らしさを求めるのだ。剣に生きる男は強くてかっこ良くなければいけない。
主人公がかっこいいのは当然だと思ってた節がある。が、居眠り磐音シリーズの竹村武左衛門のようなかっこ良くない人間がいる以上、その反対に主人公のかっこよさを論じてもよいものだった。
かっこよさにもいろいろある。粋だったり、紳士的だったり、豪快さ、謙虚さ、落ち着き、改めて見てみると主人公らは共通する所異なる所がある。軸を女性との対し方としてみると、うぶな小藤次、藤之助、控えめな磐音、幹次郎、豪快な悪松というように別れる。それがどうした、といわれればそうなのだが、鬼神のごとき強さを誇るものはうぶ派と豪快派という極派へと分布される。剣も荒々しい。絶倫と極度の抑制は共に命のやり取りで繋がっているのだ。どうだ!
家に帰るとちゅう雨が降り出した。下宿の前に来て、思い出した。ぎゃあ。迅速に取り込むも、ふとんはずくずく。久しぶりの雨男発揮である。単なる雨の不運で終わればいいのだが。
実は今日が佐伯月間最後の日の予定だったのだが、なにやら手違いで全部読むことになってしまった。とりあえずいままでで58冊。ここまできたらいくしかないが、そうすると密命読本もほしい。本屋にあるだろうか。絶版くさいなあ。
続いて鎌倉河岸シリーズ『古町殺し』『引札屋おもん』『下駄貫の死』。
場面展開がはやいのか? と、疑問が出る。まだペースがつかめないのだ。
「思い悩むから人間だろう。思うことも考えることも忘れてしまった人間よりはずっといい」(「放生会の捕り物」『引札屋おもん』P208)
この言葉でくらもちふさこを思い出した。なんていう題名かは忘れたが、記憶によく残っている。どうしてくらもちふさこなのか。他にも同様のセリフを読んだこともあるが、つまるところ舞台とかストーリーとかが関係ない所で繋がっているということか。
この一編が一番印象に残った。それぞれのキャラクターの新しい面やさらに掘り下げた面も見られたし、ここではじめてというわけでもないのだろうが事件が起こった背景というものがあまり書かれなかったのである。いままでは人間たちの関係性が強い事件が多く、その因縁を解いていくのが捕物帳の特徴となっていた。だがここでは個人的な犯罪が事件を起こし、狭い世界で解決がなされる。ここには一人の加害者と幾人かの被害者しかいない。そのあいだに必然的な関係はなく、偶然としかいいようのないものが被害の理由となっている。ここに現代的な犯罪の要素を垣間みた。
犯罪の三大動機として「金」「性欲」「怨恨」があげられる。毎日ニュースを見ていて思うのは、怨恨を動機とした犯罪は少ない、ということである。それは犯罪が合目的的になっていることがわかる。ここでいう合目的的の「目的」とは人間の生理的欲求である。いわゆる「個体の保存」と「種の保存」である。後者のほうは形がいびつになり、目的が自己の快楽のみになっているが。
人間、人を殺すというリスクを冒してまでの怨恨はなかなかもたれない。その裏返しが小説世界での怨恨殺人にみられるのではないだろうか。ひどすぎる推測だが、小説では怨恨殺人が多い気がする。気がするだけでちがうかもしれんが、まあ佐伯泰英を読んできてそう感じる。筆頭は「武士の意地」だろうか。その理由で迫ってくる敵はあまり俗悪には描かれていないようだ。はた迷惑な存在ではあるが。
というわけで、まあ鎌倉河岸シリーズも金目の事件などもよく起こっていたのだが、とくに「放生会の捕り物」では現代的な犯罪を投影されたものが見られ、関係性という面からも希薄であった。なにか鎌倉河岸シリーズが近しいものにかんじられたのである。単にそういった犯罪が取りだ足されたからではなく、それに面した亮吉らの戸惑いがよく理解できたからである。
それとは関係ないが、しほがなにかおみやげをと探しているところで、甘いもの屋に行列を発見したシーン。
しほの目の色が変わった。
「彦四郎さん、これだけ女の人が並ぶ店ですもの、間違いないわ。待っていてね」
ここらへんは人間観察のうまさであるなあと感心するのである。
10月23日(月)
鎌倉河岸シリーズ『銀のなえし』『道場破り』『埋みの棘』と、『「鎌倉河岸捕物控」読本』。
この読本にはほんとに世話になった。ありがとう。
『引札屋おもん』あたりからマイペースをつかみ出して、内容もよく頭に入ってきだした。もともと小難しい入り組んだ話でもないのだから当然だが。余裕が出てくると味のあるやり合いなどもしばしば目に付きだす。佐伯氏が読本でもいっているように、「現代から考えた時代小説」のようで、事件も現代的なものが取り入れられている。
『道場破り』では女剣士が登場。剣を持った女が再び描かれるのだが、その待遇がいい。キャラクターも立っているし、背景のドラマも読み応えがある。今後のキーパーソンなにるだろう。
『埋みの棘』ではいままでとはさらに異質な事件が起こる。加えて時間軸も大幅に広げたストーリー作りになっている。一冊選べと言われたら本書を推す。そうそう、この巻から字も大っきくなったしね。
夏目影二郎始末旅シリーズ『八州狩り』。
歴史上の人物を大いに絡めてのこのシリーズ。国定忠次とか江川太郎左衛門とか、結構有名人らしいとわかったのは広辞苑を引いてみたから。こういう風に辞典で名前を発見すると妙にうれしいのはなぜなんだろうか。でも江川太郎左衛門はむかし評伝を読んだことがあるぞ。小学三年の時だったか、かなり無理して100頁ぐらい読んだ。周りとちがったことをするのが好きな子供だったのだ。あと三国志なども演義のほうじゃなくて読んだ。でもこっちは面白かったな。人がたくさん出てくる歴史ものは好きだったのかもしれない。
本書に戻ろう。剣の達人夏目影二郎は島送りになるところを疎遠だった父に助けられる。それはある密命と引き換えにだった。そうして旅立った影二郎、シリーズ初回とあって、人間関係がうまく把握できないが、それでも特に目を引いたのが影二郎と父の関係であった。それは忠実な上下関係でもなく、対等の関係でもない。信頼し合っているわけでもないが、無関心でもない。影二郎は父の妾の子供であったことから、まあ簡単に言えばぐれた。生半可なぐれ方じゃなかったのだが、それがこの不思議に安定した、なんというか孤立し合った関係を築いているのだと思う。
これをはじめとして、以降影二郎は父や老中水野忠邦らの暗殺などの指令を受ける。しかしそれをうのみにして剣を振るう影二郎ではない。ときに老中の命にさえも反発し、自分の答えを求める。ここには確固とした信条があり、底に流れるのは人情である。反骨の剣士夏目影二郎は幕府の機構外にあり、それにふさわしく自由奔放な活躍を見せる。なんともかっこいい男である。
10月24日(火)
夏目影二郎始末旅シリーズ『代官狩り』『破牢狩り』『妖怪狩り』。
『代官狩り』にて、初のお目見え(見逃してたのかもしれないが)の、お代官様である。なんだか嬉しくなってしまうではないか。ここで初めておこまと言う影仕事の仲間が出来る。このおこまも、例外なく影二郎に惚れる。しかし影二郎にはすでに決まった相手、若菜がいる。おこまは悲恋の運命を背負わされいる。今後どうなっていくか。前例としては古着屋総兵衛シリーズのおきぬがいるが、その場合は想いを封印して、うやむやのままに他の男のもとに嫁ぐことになったが、さて、ここで主人公たちの特徴をひとつ述べよう。
モテる。
まあ、当然であろう。弱き者を助ける心優しき剣士、腕っぷしは当代一、そして一人の女性に一途な想いを抱えるという、とってもそそる男なのである。男の都合の良いように描かれているという向きもあるだろうが、いやはやこれでなかなか人間味もあって、単なるモテ要素の寄せ集めではないのである。
そうした主人公たちが複数の女性に想われるのは至極自然。というわけで、泣く女も出てくるのである。ただ泣くだけではない。身体を交わした末に別れるケースがあるのだ。しかし、どうもアフターケアがなってなかったりする。それでよいと女は言っているのだが、ここらへんが当時の男たちの性に対する意識なのだろうか。
一途なくせに手は出す、というのが気になってしまう年頃なのである。
10月25日(水)
夏目影二郎シリーズ『百鬼狩り』『下忍狩り』『五家狩り』。
これは一つの事件をいくつかの章に分けて一冊に収めた長篇小説なのだが、構造が他より込み入っているせいか、なかなか入り込めない。だがふと全体像がぱあっと開き見えるときがあり、その瞬間が爽快である。次はこう来るだろう、というのが的中したときなどは全能感に酔いしれる。これが長篇の醍醐味である。
『百鬼狩り』の冒頭、三人の旅人が海辺を歩いているシーンがある。ここでファンはニヤリとする。影二郎一行だ、とすぐにわかるのである。しばらく匿名が続き、旅人の格好がいかにも異なもの(ファンには周知の事実)に書かれ、あたかも異化の手法であるが、これはさにあらず。ファンサービスである。ファンはこれを読んで。「うふふんっ、わかってるよわかってるよ」というささやかな優越感を抱けるのである。これがまた気持ちよいのである。まったく佐伯泰英もくすぐりどころをよく知っている。
また別の話。おこまと影二郎が嵐の船の中にいる場面。おこまは気丈な性格ながらも、船が苦手なのだ。影二郎でさえも平静ではないところにきて、おこまは死をも覚悟する。そして、影二郎に身を任せるのだ。影二郎はそれを受け止める。ああっ!とファンはドキドキするのである。若菜はどうした!と怒るものもあれば、そうだそうだ二人こそがお似合いだ、とはやし立てるものもいる。私はどちらにもつかずただおろおろする係だった。
さて、二人は無事陸に上がることが出来た。そこからが、問題である。
触れないのだ。
あの夜、二人は確かに体を合わせたはず、それなのに、影二郎もおこまもそれ
に触れない。内面描写でも、まったく気にするそぶりも見せず、なんだったのかあれは、と、そろそろ出てくるだろう、と思いながら次の巻にいってしまった。それでいいのかおこま。
あと、以前手下に影二郎を拷問させた蝮の幸助が、国定忠次の子分であることから影二郎と親しく話したりしているのも気になる。いつ関係を清算したのか。日々生死を生きている者たちは割り切りがきくのだろうか。
10月26日(木)
夏目影二郎シリーズ『鉄砲狩り』『奸臣狩り』『役者狩り』。
暫定完読。ここらへんから分量が減ってきたので、読みやすくなった。やっぱり黄金律は原稿用紙400枚に読書時間1時間半だ。これなら記憶も薄れず、集中力を切らさず一気読みできる。多少時間に差異があっても、400枚っていうのは他の人とも共通できると想う。これ以上だと、人間より時代に焦点が当てられ、時代小説より歴史小説に近くなってしまう。少なくともいまの時代小説文庫ブームでは、さっくり読めるのがいいと、私は思うのである。
『奸臣狩り』の一場面で、影二郎に自分の腕前を見せようと多羽の烏を惨殺する剣士が出てくる。ここでの影二郎の心情を引こう。
恐るべき剣客だった。
その腕前以上に影二郎の気持ちを寒々とした虚無が見舞っていた。
(なんのための殺戮か)
影二郎の胸にやるせない怒りの情が生じた。
自然の生き死にの法則を鑑みてもこれは異常な殺戮であったと言えるが、ここではその烏以上に人間たちを斬ってきた影二郎の言葉だからこそ注目したい。いまの感覚で言うと、鳥を何羽不必要に殺そうと、大義あっての殺人のほうが非難の目にあう。時代の違いというより、生きてきた道の違いとも言えそうだ。斬るということは生を軽んじることではない。生の重みを知るゆえに、それを守るために剣を振るうのだ。だからこそ鳥畜生であっても、無意味な殺戮は許せないのだ。同時に、その行為に目的があったとすれば、それは自分が関わってくる。責任はないが、自分の関わりのために無意味なしがある、それが手の届かない所で行われている。
ここに表現されているのは剣を持つ者の無力感ではないか。
私は、ヒーローとしての魅力をそこに見る。
10月27日(金)
密命シリーズ『密命――見参! 寒月霞斬り』。
朝読む。最後に残った密命シリーズ、この作品が佐伯泰英の時代小説第一作目なのである。とくに違和感なく楽しめた。ここでも抜け参りが出てくる。一種の通過儀礼ということで、そういうことなら……とまた『熱風』を想起してしまう。どうやら単発ものとして書かれたようで、これが後に父と子による家族剣豪小説をつくりあげるその発端となる。
昼、本の雑誌社に行ってクロコダイル日記を更新してくる。杉江さんとの日本シリーズの賭けに負け本当は江戸屋のカキフライを奢らなければいけなかったんだけど、そのことを「賭け事はいけない」という趣旨で書いてもっていったのだが、アップする前に杉江さんに「いいよ、おれのスポーツを見る目をほめてくれればちゃらにしてやるよ」と言われ、ノンポリなぼくは唯々諾々、内容を急遽変更しおべんちゃら文を更新したのだった。
まだ『密命読本』が見つからず、しかたない、どこかの本屋で買いますと言い、一応アマゾンで絶版か調べてみたら、おお!
新刊が出てる。
予想はしていた。テキは超音速の筆を持つ達人だ。月に一冊強を書くという。この企画が始まって一ヶ月を過ぎているのだから、当然次の刺客が放たれていよう。なんだか小説の主人公になった気分である。おのれ、負けてたまるか。
それにしても、こういう読破企画中に次の新刊が出るなんてのは滅多にないケースなのではないか。背後から万年筆が原稿用紙を走る音が迫ってくるようだ。
さて、家に帰って密命シリーズ第二巻『密命――弦月三十二人斬り』を読もうと手にとった。解説はあるかな、と目次を見た。ない。そうか、と本文に移ろうとした時、大いに違和感、というかデジャビュ−を感じた。あれ、この章題、どっかで最近、すっごく最近……考えること二秒、はっとカバーを剥いだ。ああっ!
なんということか。そこには『密命――見参! 寒月霞斬り』と書かれていたのだ。どひぇえ。戯画的なな反応をし、まずはじめに思ったのは「これでネタが出来た!」片足にひんやりと、物書きの沼の感触を感じたのだった。
と、いうことでこれではにっちもさっちもいかない。あとが詰まっているのにこれはないと、本を探しに表へ飛び出した。とりあえず、因縁のブックオフへお代返却に行く。これまで多くの本を都合してもらったブックオフだが、これにはちと怒りが湧く。なので横柄に言い立てようと思ったが、レジに立って第一声「あの、すみません」うーん、泣く子もみくびるこの口調、どうにかならんもんか……。とりあえずその場は350円を取り戻して、しかしその店には目当ての本がない。一応、密命シリーズのやつは中身をチェックしてみたが、この間違い本をどこのブックオフで買ったかもわからないのであるからして、まあ照合はならなかった。
次に中野通りのブックオフへ。しかしなし。しかたない、探す時間がもったいないと思い、すぐ近くの文教堂へ。すると幸福なことに、佐伯泰英フェアをやっているではないか。そこには目当てのものと、『密命読本』もあった。やった。しかし新刊はなく、店員さんに聞いてみても品切れだと言う。そういえば棚の一部分だけがぽっかりと空いていたような。おそるべし、佐伯泰英。
しかして続きは読めるようになったものの、せっかく外に出たのだから(こういう考え方はひきこもりっぽくてあらためねばならないとは思うのだが)と、近所の本屋さんをいくつかまわり、新刊もゲットする。『秋帆狩り』、夏目影二郎シリーズだ。
密命シリーズこんどこそ『密命――弦月三十二人斬り』『密命――残月無想斬り』。
文体の話というのか、前者でまた気になる箇所が出てきた。本文中、前作までのいきさつを説明する場面だ。
(略)対決の末、悪巧みを阻止した(『密命――見参! 寒月霞斬り』詳伝社文庫)
いくら神の視点の地の文だからといって、宣伝はないだろう、宣伝は。せめてタイトルだけにしてほしかった(のちに出てくる『悲恋』の場合はそうである)。まあ、普通の読者はこんなの気になんないんだろうけど、ちょっとびっくらこいた。
複雑繋がりでいうと、主人公方についた大岡(あの大岡越前守ですね)が、密談を交わすときだ。
(略)そなたは策士よのう」
「大岡様ほどには」
二人は笑い合った。
かの有名な越後屋&お代官さまシーンにそっくりなのである。主人公だって相手を謀るし、卑怯な手も使わなければいけない。価値観がひっくりかえる。ここではそれほど強調されるわけではないが、のちにはそれに悩む主人公像が描かれる。
『密命――残月無想斬り』では、なんと百五十六歳の剣士が現れる。暴走である。数が多ければいいというもんではない。一応、戦国時代の因縁がうんぬんあるのだが、強引な力技である。
だがどうしてか、この老剣客との対決のシーンがいいのだ。主人公が負けてしまうのではないかと不安になるほどの緊迫感だ。思い出したのが荒山徹の「魔風海峡』。あれもかなりの超人・怪人が活躍していたが、それにも劣らない剣劇で魅せる。またこの敵を登場させたことで惣三郎が新たに秘剣を身につけるのだが、それがさらに剣客としての魅力を引き上げている。
10月28日(土)
一日中家にこもって読書。
密命シリーズ『刺客』『火頭』『兇刃』『初陣』『悲恋』『極意』『遺恨』『残夢』『乱雲』『「密命」読本』。
『刺客』、いいねえ。惣三郎一家は平安を取り戻したかにみえたが、今度は家族離反の危機に陥る。そんな中で惣三郎は辻斬りに斬られ、川に落ちてしまう。その死体は揚がらなかった。それは新たなる密命の幕開けであったのだ。
本当は生きていた惣三郎に、迫り来る七人の刺客たち、個々に来し方があり、振るう剣の意味も違ってくる。今回の敵役の描写がじつにいい。特に稚児のような剣士西三条実里が格別の存在感だ。やはり闘う者たちの背景・理由を描かねば剣劇シーンは面白くならない。命のやり取りは、つまり生を勝ち取る戦いだ。その重みと増せば増すほど、一挙動一動作に深みが増すのである。血湧き肉踊るのである。
時同じくして、主人公惣三郎は戦う中に老いを感じはじめる。手強い敵に立ち会って、勝つために虚言を弄してその動揺を誘い、自己嫌悪にも陥る。(お主の剣は汚れておる)。そんな生々しい面を見せる惣三郎を、より応援したくなるのである。
だが、とうとう惣三郎は決定的なピンチに陥る。これを切り抜けたのが運によってであった。敵は雷に打たれて死ぬのである。このあと、大岡らに自分は老境ゆえにもう密命は断る、というのである。これこそ惣三郎の剣客としての転機といえよう。起承転結で言う転、あとは結を待つのみという所だ。
ラスト、疲れきった惣三郎が家族のいる長屋に戻る場面。数々の死闘は、この瞬間のためにあったのだ。シンプルだが、涙なしにはいられない鮮やかすぎる朝のシーンである。密命シリーズ一番の傑作だ。
以降、惣三郎は引退をすることはなかったが、関わる事件は江戸の町を舞台にしたものが多くなる。それゆえ登場時人物も大幅に増え、町人たちの活躍が増える。焦点も藩単位でなく町人個人にだったり、はたまた『悲恋』では惣三郎の娘みわが恋をする。そこでは人間味のある親父っぷりを発揮する惣三郎。ここのあたりではコミカルな描写も増える。会話も面白く、それが地の文にも反映され、いい感じに柔らかくなっている。結婚と出産が相次ぎ、全体では平和を保つ。物語は安定期に入ったようだ。
『残夢』、いいタイトル名だ。それだけではない。登場人物の名前付けも良い。
その剣士の名前は山田哲平。名字が違うし「てつ」の字も違う。が、とても感情移入してしまうのだ。だが、この哲平なる人物、敵役では佐伯時代小説中一番のしょぼいキャラなのである。身分は下級役人、性格は暗く考え方もみみっちく、惣三郎らと敵対するのも「あなたがお金を儲けるのがむかつくからあなたを斬る」というものである。なんという阿呆であろうか。負けるのも惣三郎の豪剣にではなく他の剣士にである。唯一特別な所があるとすれば、剣の構えか。腰を極端に落とし、片手を水平に広げ、片手で剣を背負う。そしてカニのごとく横歩きをして間合いを計るのである。まっさきに思いついたのは町田康『パンク侍、斬られて候』に出てくる宗教踊り「腹ふり」である。めちゃくちゃ似ている。その姿にますます哀れを誘われて、おもわず「がんばれ、てっぺい!」と応援してしまった。しかし哲平は破れ、しかもそれほど悪いことはしてないと思うのだが、一閃の内に殺されてしまう。せつない。
『「密命」読本』には佐伯氏のインタビューが収録されている。相手は言わずと知れた佐伯泰英評論家(なんて肩書きはないのだが)細谷正充氏である。また氏は「密命論」で主人公の強さのインフレにも触れている。なかなか面白い考えで、これが剣豪小説の要であると思われる。
インタビューで一番印象に残ったセリフを引用しよう。
編集部 読者には電車の中で読んでもらって。
佐伯 そうなんです。それが一番嬉しい。書斎ではなくて、電車の中とか、たとえば病院のベッドの上で、目の前の病気を考えたくない方に読んでいただきたい。
もうしわけありません佐伯先生! 私の読み方は間違っておりました。
思わず頭を垂れてしまった。そうなのだ、これはきっと電車の中とか療養中とかに読む本なのだ。そうでなければ、もったいない。佐伯泰英は面白いのだ。文体が整っているし、毎度毎度きちんとチャンバラシーンで盛り上げてくれる。事件だって手を替え品を替え、シリーズ物の主人公は個性が際立って、脇役陣も光る。ときにトリビアルに町人文化を丁寧な手際で書けば、時代認識をひっくり返すような大風呂敷を広げる。死と対照される眩しいほどの生活感、ふざけすぎることはせずに笑える会話、まっすぐな感情描写、緊迫の剣劇、鼻孔をくすぐり肌に感じる江戸の空気たち――なんと豊かな、なんと暖かい世界か。一行目から心は持ってゆかれ、最後の余韻とともに口溶けよく幕を閉じる。あとには何も残らない。再び会うその時まで。見知らぬ世界への一瞬の離脱。そして帰還。あとにはなにも残らない。本を閉じればほっと一息、すっと空気が通る感触がするだけだろう。
10月29日(日)
密命シリーズ『追善』『遠謀』『無刀』。
これで暫定完読。ますます好調、金杉親子。ここら辺は親子が宿敵尾張勢と交互に闘うつくりが多い。『遠謀』息子清之助が大和柳生に赴き、道場に活気をもたらす。この風景が、近頃プロ野球(たとえば日本ハム)や高校野球によく見られる楽しむ野球に似ている。作者も言う通り現代を反映している一場面であろう(とすれば清之助は新庄か?)。
そして『無刀』。やっとたどり着いた。この企画の発端になった書である。解説に佐伯泰英専用スリップ箱のことが描いてあるのだ。なんということを書くのか細谷氏は。おかげで浜本社長が本誌自在眼鏡に「関口鉄平が佐伯泰英読破に挑戦」などと書いてしまったのだ。
ここにきて昇平がクローズアップ。みわとの恋が急接近!(ってなんだか占いの惹句みたいだな)こっちも見守ってきた甲斐があるってもんだ。ふたりの会話は、ういういしさに満ちつつも、あまりロマンチックな方向には行かない。長年の付き合いの二人は、ときに頬を染めながらも、なかなか粋なやり取りをするのだ。この場面がいい。佐伯氏の次の新機軸は恋愛小説を望む所存である。
そして昇吉、ついに初めての真剣勝負をする。こっちが緊張するのである。惣三郎と清之助が「すれて」しまったので、新鮮なものが感じられる。
と、思いきや父子もともに悩むのだ。こちらはただいま大和に滞在中。二人は修行と稽古に励む。
ここでは剣を手にした男たちがいかにその剣を使いこなすか。いかに剣に背負わされた生と死に折り合いを付けていくかが語られる。
清之助が死に覆われた山に入っていく場面は、いままでにない緊張感をもたらす。清之助を死者の霊たちが待ってくれと、こっちを見てくれと声を掛けて追ってくる。「それでも清之助の足は止まらない。止まれば、死者と同列の世界へと落ちる」。なんとか生き抜いた清之助であったが、その体には死臭がこびりついてとれない。これはだれの死臭か。もちろん、その山で死んだ清之助とはまったく関係のない者たちの臭いだろうか。ちがう。幻覚を起こした清之助には、これまで自分が生み出してきた死が感じられてしまったのではないか。同時期に昇吉も人を殺すことを体験している。三人がそれぞれ剣のわかつ生死に思いを巡らせているのだ。
剣には「活人剣」と「殺人剣」があるとされる。生かすために殺すのか。殺すために殺すのか。そのどちらを振るうか。結局は殺さざるを得ない状況に追いつめられる彼らの苦悩はそこにある。
タイトル『無刀」はかの有名な「無刀取り」の他にも含む意味があるのではないか。惣三郎は勝敗の埒外に活人剣の道を求める。もしや惣三郎は剣を捨てきる気なのでは? いや、それはないか。それでは剣豪小説ではなくなってしまう。しかし今後の展開に注目だ。剣に生きるということをどれだけ掘り下げられるか、彼らにはどんどん苦悩してその道を切り開いてほしい。
夏目影二郎始末旅シリーズ『秋帆狩り』。
最新刊である。今回は海上での戦いがメインだ。影二郎の相棒犬あかがまた置いてけぼりを食う。夏の暑さにまけて寝そべってばかりである。最近あかにつめたいなあ佐伯さん。
物語は継ぎなる展開を匂わせながら終わる。このシリーズはけっこう「引き」を使うのだ。まったく、気になるではないか。ぷんぷん。
しゅううううりょおおおおおお!
終わった! 終わった! やっと読み終わったぞ佐伯時代小説。なんと長い道のりであったことよ。とりあえず乾杯。
はっきりいおう。最後はきつかった。たっぷりと日程をとったので体力的なものは問題なかったけれど、やはりこれは間違っていた。だいたいにおいて37日間で同じ作家の本を91冊読むなんて変態的所行である。しかも同ジャンルだ。飽きます。さすがに飽きます。これは作者の方に本当に申し訳ない読み方だったと思う、というのもおかしいけれど、書評家北上次郎氏のいう「いい読者」ではなかったことは確かだ。こんな形で出会ってしまったことをかなしく思う。
と、いっていても暫定完読をできたのは、やはりこの小説らがもつ力であろう。エンターテインメントというのはこういうものだと、はからずも思い知らされた。
一次危機は古着屋総兵衛シリーズの中頃辺りであった。登場人物らの関係があまり変化せずにいたので、刺激がなかったのだ。一話一話の異なった事件だけでは物足りなかったのだ。つまり、シリーズ物は単に同じキャラクターを使えばいいというものではない。彼らに変化を求めるのだ。だから読者は遠く離れた時代の話を、現在進行劇として、身近に楽しめるのである。
この一次危機を救ったのは、そのキャラクター内外の変化でもあったが、とくに『熱風』という傑作があったからだと思う。超能力を用いているのが反則と、作者も意識していたかもしれない。だが、この道具立てがあったからこその感動が、私たちの胸を震わせるのである。スケールの大きさと、それに押しつぶされまいとする人間の微力さが鮮やかな対照を見せる。
居眠り磐音シリーズがその後続いたが、案外退屈はしなかった。徐々に移り変わる人間模様が目を引くし、まず読みやすかった。全シリーズを通してあまり変わらない文体ではあったが、多少の硬柔があるとすれば、これが一番柔らかい文体である。
そして夏目影二郎始末旅シリーズの次に、最後の密命シリーズ。この密命は、ちょっときつかった。一気に三日で読んでしまったこともあるが、まん中辺りで細谷氏の言う「強さのインフレ」が邪魔をしたようだ。老いを感じ始めた惣三郎だったが、その後もあまり衰えというものを見せないのだ。ちょっとタイミングを間違ったようである。息子が成長するまで、やはり父は強くあらねばならないからだ。現在はますます強くなってるのではないかとも思われるが、どうなんだろうか。
この強さのインフレ問題は、まあ剣豪小説ならば宿命ともいえるだろう。これは麻薬の耐性に似ている。つまり、シリーズを通じてさらなる刺激を求めるがゆえに、どんどん強い敵を創造してしまう。よってそれを倒す主人公はどんどん強くなっていく。町のチンピラなどは百人束になってもかなわないぐらいに。チンピラぐらいならいいが、あまりに強くなりすぎると大名一家ほどの力を人間一人でもってしまいかねない。行き過ぎの例は「ドラゴンボール」に顕著であろう。まあ、あれはそれを楽しんでいた節があるが、ことリアリズム(かな?)が重視される時代小説にあっては、このために剣豪小説の要素をもつことが難しくなっているのである。
佐伯時代小説は、チャンバラがメインとなるものが多くを占める。メインというのは、起こった事件の解決手段としてである。最後に斬らなければいけないのは、いわば悪人が悪人であるためである。そこはお約束、と言われることもあるけれど、まあ一つの型、もしくはルールといってもよい。ルールがあるからそのスポーツの名前もつくのであるし。
悪人を斬るのはカタルシスとかがあるからである。今の時代にありえない沙汰が、窮屈な現代に生きる人々のうっぷんを晴らしてくれるのである。
で、チャンバラが必然として出てくる。鎌倉河岸シリーズは捕物なので、最強の剣豪、みたいなものは登場しないかと思ったが、やはりそれでは立ち行かなかったのか、主人公の政次が剣の達人として成長する。闘うには武器がなければいけないのだと、よく教えてくれる例だ。
そんなこんなで、鎌倉河岸シリーズはまだ大丈夫だろうが、密命は初めのほうで最強の敵が登場してしまう。最強の敵とは、主人公が倒せなかった敵だ。ではそいつを倒すために強くなればいいではないかというものだが、その敵との決闘は意外な幕の閉じかたをしたのだ。いままさに主人公が破れんとした時、なんと雷が敵を襲ったのだ。それで即死。惣三郎には打ち勝つチャンスが永遠に失われたのだった。
このシーンは二つの意味を持つ。まず、ラッキーでしか勝てなかった惣三郎は、もはやヒーローとして立ち行かなくなっていることを示す。以後、息子の活躍が見込まれる。もう一つが、剣豪小説を放棄したのではないか、ということである。剣豪小説は、主人公が最強の道を歩むサクセスストーリーである。だが、ここでは自分より強い敵を運で負かしてしまっている。あかんではないか。きちんと剣で倒さなくてはヒーロー像が、ああヒーロー像がぁ、ということである。
佐伯時代小説中に、よく出てくる文句がある。
「勝負は一瞬の遅速にて決まる」「勝敗は紙一重だった」
これはつまり、最強幻想を打ち破る言葉ではないか。しかし最強幻想がなくなれば、立て続けに勝ちまくる主人公があまりに非現実的になってしまう。実際、衰えを知らぬ惣三郎に、後半感情移入はできなかった。反対に、『無刀』にて出てきた剣の未熟な昇吉の戦いがハラハラドキドキ、手に汗握るものだった。
これは単に世代交代というものに収束されないだろう。ここには佐伯泰英が挑む新たな時代小説、最強でない剣を振るう男たちの物語の萌芽がみられるのである。
なんだか話があっちゃいってこっちゃいってしてしまったが、えっとどこに行ったか、ああそう、第二次飽き危機の話でしたね。これは前に書いたのに通じるのだ。そうだ、単なる脱線ではなかった。
飽きてきたのは一つに期待していた惣三郎の老いの変化が見られなかったこと。あと敵のワンパターンの襲撃。古着屋総兵衛のように、もはやこの悪の親玉は寿命を迎えているのではないか? 大きな物語を想定してしまったがために、中だるみを起こしているのである。
そこにやっと訪れた救世主、次なる世代・息子の清之助である。だがいきなり難問が。清之助はもはや強すぎるのである。多少のあいだは楽しめたが、中身はあまりかわらないのである。想い人とも通じ合っちゃってるし、あとは剣を振るうことに悩んで悩み抜くしか成長の手はないだろう。どうする佐伯泰英。引き継ぎが単なる引き継ぎに終わらないことを祈るのみである。
剣劇シーンに必要なのはイメージである。それはすべてを描く方法と読者に補わせるのの二通りがあるだろう。だが、両者ともの完全なタイプはないので、すべては組み合わせで出来る。
そういう意味で言うと、佐伯時代小説は描くほうである。一挙手一投足をなるべく丁寧に記していく。それと行替えを多くして速さをそこなわないようにする。叫び声も空気を作る。擬音もよく使う。それぞれ行を変えて単独で用いる。
しかしなんだか、あまりうまくイメージできないのである。スピードに気を取られているのかとも思ったがさにあらず。再現の細部にこだわりすぎているからだろうか(再現、なんて言葉を使うことからも映像が細かい)。できればもっと点、点で描いてほしいなあ。そうすれば描いてある細部の全部を辿っていってぎこちない動きになったりしないから。まあでも、緊張の空気とか内面はよく描かれている。
私の時代小説のイメージは、まず『水戸黄門』の世界だ。そうして読みながらよく考えたのが、ドラマと小説の違いである。
まず子供の重要さについてである。
水戸黄門をはじめ、時代劇には子役は少ない。なぜかといえば、いい子役の調達が困難だからであろう。しかし小説においては役者は作家が動かす。だからうまい文章や会話で、いい子役はいくらでも登場させられるのだ。とくに下町の子供たちのはつらつさ、また思春期の少年少女の悩みなどは、佐伯時代小説において生き生きと描かれている。それがしっかりしているから成長小説としてもいい出来となっている。
またドラマでは出来ない壮大な描写や、大勢の人物など、小説は自由な面を持つ。まあ、自由だからこそ大変なものもあるが。
そんな要素を生かしているのが古着屋総兵衛シリーズの『熱風』である。主役の子供と、それに引き続く数万人の人々。ダイナミックな川の氾濫シーン。
よくあるシーンに、刺客から「尋常の勝負を」と言われ、主人公がこう答えるのだ。
「迷惑至極なり」
尋常の勝負を、ときて「迷惑」とずばりと斬る。痛快だ。それだけでなく、この受け答えに主人公らの「無闇に剣を振るうものではない」という考えが反映されているのだ。「男なら武士なら勝負を申されたら受けろよ」的な考え方を打ち壊す、ロマンティシズムに浸らない気持ちよさがある。その後ろには確かに生活があるのだと、しみじみ感じるのである。
読み切りやすい分量は原稿用紙400枚くらいだと思う。それで330頁くらいがばらけ具合としてもベスト。そういえばはじめを除いては手紙文中にも行替えを使うようになったし、スピードにずいぶん配慮した文章になっている。ありがたい。
よくみた夢に、読んでも読んでも進まない、というのがあった。けっこうつらかった。余裕を持っていたつもりだったが、最後はあせっちゃったし、それまでも「果たして読み切れるのだろうか」なんて不安が遅読の自分にはあったのだろう。
体重は変わっていない。筋力は……おお! すごいぞ。いま腕立て伏せをやってみたら(この文章が震えているのが読者諸氏に伝わらなくて残念なのだが)、+23回という大幅アップを記録した! 恐るべし、佐伯時代小説。
記念に写真を撮ってみた。本編89冊読本2冊の計91冊。13×7なので素数ではない。並べてみて、キャンバスの万年床の丈が少し足らなかった。中途半端になってしまったが、まあ一応ぜんぶ並べられたのでオーケーとしよう。
カシャ!
シャッターの模擬音が夜中の六畳間に小さく響いて、今回の挑戦はおわり。めでたしめでたし。
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「関口鉄平 佐伯泰英完全読破日記」
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