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俺の十代は暗黒時代だったなと彼は振り返る。でもアンコ食う時代じゃない、負のオーラばりばり全開、いわば「暗黒」という名にふさわしい正真正銘のダークサイド、ヨーダもびっくり堕落の極致である。でも「デカダンス」なんて横文字はかっこよすぎて似合わないないから、太宰の野郎はかっこつけやがってこん畜生、でも堕落ってのはもっと落ちぶれて救いようがなくて、出口なし、美意識なんてものとはほど遠いのさと、彼はひとりごちる。もちろん「青春」という、あの美しい二文字とも当然彼は無縁であった。かっこよく語れるような過去を、彼は何にも持ち合わせてはいないのである。べらぼうめ!
十代といえば、「勉強」「スポーツ」もしくは「恋愛」、この三つの選択肢のどれかを進むのが本道だろうと彼は思っていた。志望校への合格、県大会のトロフィー、可愛くてちょっぴりわがままな恋人、いやさ、そうした成功なんかクソ喰らえだとしてもだ、七転八倒のほろ苦くも楽しい日々さえあれば、人生のよき思い出として生涯胸の内にしまいこまれるはずではないか。それで俺は余生を生きられるだろうと、甘い見立てをしていたのである。
ところが彼は、学校という空間に馴染めなくて早々に逃げてしまった。なんともはや情けのない話ではある。しかも、逃げたというほど主体的ではなく、ただ単に、いつのまにかはぐれてしまっただけだ。大きな誤算である。根っからの社会不適応者だということに彼は気づいていなかったのだ。だから「勉強」も「スポーツ」も「恋愛」もあっさりと失敗した。そして彼は、よりにもよって「麻雀」というろくでもない道に迷い込むことになる。
ほんのちょっと不良ぶって手を出す程度であれば、ダメージは最小限で済んだかもしれない。ところが彼は、たとえばイーソウの孔雀の絵柄を美しいと感じ、ただ一度金持ちの友人の邸宅で触った象牙の牌の感触が忘れられず、阿佐田哲也のギャンブル小説に人生のすべてが書いてあると思い込んでしまった。いささかのめり込みすぎる気質の持ち主だったのである。常軌を逸していた、と言ってもいいだろう。136種類の麻雀牌が世界のすべてを表現してくれるとさえ考えていた。阿呆である。結果、当時池袋に存在したフリー雀荘が彼の唯一の居場所となった。当然そこは、なんにも十代らしい恩恵を彼に与えない。そんなところに青春の果実は存在しない。
なんてったって、勝っても負けても、女の子のほんわりした甘い匂いに包まれることなどありえないのだ。卓を囲むのは、ヤクザくずれか窓際サラリーマンか、もしくは不良留年学生、つまりは屈折した人間ばかりであり、まともな社会生活を送る人間などひとりもいないのである。将来における有益な人脈など構築できるはずもない。不毛である。積み重ねられるものなど、何もないのだ。卓上に響くのは、たん、ぱしっ、じゃらじゃらという牌の音と、ポン、リーチ、ぐえっへっへもう一局やろうぜという野太い声ばかりであり、唯一の女性の声はといえば、全自動麻雀卓における「ぴんぽーん、リーチ!」という機械に吹き込まれた音声だけであって、それがまたいっそう彼の寂しさをつのらせる。そこはつまり、他に行き場のない人間たちの吹き溜まりであった。彼らに将来はない。そして彼らは、自分自身や互いのことを「人間のクズ」と呼び合う。「クズ」であることだけが彼らに共通のアイデンティティ、仲間意識なのだ。
朝が来て、不毛な闘いを終え、煙草の脂のせいで黒く変色したカーテンを開けると、窓の下を若い大学生たちがきゃぴきゃぴと歩いている。まっすぐにキャンパスを目指し、太陽の下を堂々と歩いていく学生たちを見て、ああ、この窓の向こうにはバラ色をした輝かしい未来があるのだな、と彼は思った。愛とはつまり、太陽のことなのだ、と。
そんな彼は、たとえばエミール・クストリッツァ監督の映画『アンダーグラウンド』で二十年間地下で生活していた英雄クロとその息子ジョセフが地平線から昇る太陽を見るシーンを観て涙したりもする。だがいっぽうで、陽の当たらないあの雀荘のクズ連中どものことが、やっぱり好きなんだよなあ、と思ったりもする。どうしようもないのだ。
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そんな彼にぜひともオススメしたいのが、『ブギーポップは笑わない』である。
ぼくは十代の少年であることに失敗していた人間だと思う。
というのは、あとがきにさらりと書かれてあるフレーズだ。おそらく作者は、みずからの「失敗していた」十代との和解をはかるべくこの小説を書いたのだろう。「失敗している」のはひとりだけではないのだ、というメッセージをこの作品からは強く感じる。しかしそれは、「他にもつらい人がいるんだから少しはマシだろう」という類の慰めではない。それよりもむしろ、自分ではない他人がいるということ! その他人の言葉が世界を構築している、そのことこそが、彼のような社会不適応型アウトサイダーの心を、より深いレベルで救出するだろう。
そう、私は何にも知らなかったのだ。
私や、私のごく親しい人たち――彼や彼女たちが、何に苦しみ、何と戦っているつもりだったのか、まったく知らなかったり、見当はずれの思いこみしかできていなかったのだ。
どんな人間であれ闇を抱えている。それでも、どうにかうまくそこに内爆的処理をほどこして、日常生活を維持している。昨日と同じ今日、今日と同じ明日を迎えることが、いかに困難か。十代の彼には、もちろんそんなことは想像もつかなかっただろう。そんな彼が、「ぼくは十代の少年であることに失敗していた人間であると思う」というフレーズに触れたとき、何を思うだろうか。
『ブギーポップ』の物語が本格的に動き出すのは第二話以降なのだが、屋上でブギーポップと高校生の竹田くんが会話を重ねていく第一話のシーンこそ、ぜひ彼に読んでほしい。「俺はこうやって生きていこうと思うんだ」「いいね、それ、がんばりなよ」「でもアイツには不安定な進路だって言われるし」「いいじゃん、女の子って、ロマンチストには冷たいもんさ」。社会からはみ出した異邦人たちによるこういう何気ない会話が、屋上という特異な空間、つまり、学校の内部にありながらそのシステムからちょっとだけ解き放たれた息のできる場所で交わされるということに、彼は何を感じるだろう。
「青春」という言葉の意味が彼にはわからない。しかしこの屋上に、もしかしたら、彼は青春を感じるかもしれない。
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