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| ■6月24日:第24回 |
時見宗和『ただ、自分のために 荻原健司 孤高の軌跡』(スキージャーナル社)。 スキーの複合競技で何年間も世界のトップに君臨し続けた、荻原健司を描いたノンフィクションです。あまりにも強すぎたため、度重なるルール改正による荻原つぶしが行われ、それにも関わらず勝ち続けた、あのキングオブスキーです。 という説明を加えないといけないくらい、もう時間が経ってしまった感もありますが、引退発表は昨年で、本が出たのは今年です。 1992年、アルベールビル冬季五輪。複合団体種目で日本チームが金メダルを獲得し、日の丸の旗を掲げながらのゴールシーンとともに、荻原健司の名前は全国的に知れ渡りました。 表彰式などで見せた、底抜けに明るいキャラクターも話題になり、メディアはその“悲壮感やプレッシャーと無縁の新しいアスリート像”を頻繁にクローズアップしました。それまでの日本選手の定型をくつがえす、緊張を知らぬ性格が五輪の舞台での大仕事につながったのだ、と。 ところが、事実は違ったようです。 アルベールビル五輪の団体戦の前、荻原健司は個人戦で7位に終わっていました。調子が良すぎたためにメダルを意識しすぎて精神面の未熟さを出し、失敗したというのです。 <緊張というものが「10」あるとしたら、個人戦の時に「9」を使い切り、団体戦の時には残り「1」の緊張しかなかった>(抜粋) 1994年のリレハンメル冬季五輪。 金メダルを確実視されながら、ジャンプでの不利な追い風と、地元ノルウェー勢の戦略にやられて4位どまり。しかし、団体戦では楽々と2連覇を達成。 そして競技生活後半期のハイライトとも言える、1997年のトロンハイムの世界選手権優勝。1998年、地元での長野五輪へと続いてゆきます。 底抜けに明るかった荻原健司が、いつしかストイックな修行僧のような佇まいを見せるようになっていくのがこの頃です。と、これは個人的な印象に過ぎませんが、ぼくが強く惹かれるようになったのは、むしろW杯で勝てなくなった以降の姿です。 勲章続きの絶頂期を経験し、それが過ぎ、明らかに下り坂を迎えている中で、なぜ現役にこだわり続けるのか。何をやり残し、何の力が、荻原健司を現役に留めたのか。 これに対して「五輪の個人戦金メダル」という単純な答を出すのは適切でないような気がします。 ひとつ、お父さんのエピソードを紹介しましょう。荻原兄弟といえば、双子の荻原次晴が有名ですが、姉ふたりもノルディックの中学全国チャンピオンになったスキー一家です。 あるとき、父がジャンプの理論を語ると、「うるさいなあ。ジャンプをしたこともないのに」と反抗されてしまった。すると、父はハンググライダー教室に通い始める。離陸時や空中での感覚を知り、息子たちと共通の言葉を持つために。 さすが世界チャンピオンを育てたお父さんは違います。 そうだ、そう言えば荻原次晴が書いた荻原健司の本もあるんだった。そっちも読まなきゃ。 |
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