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スティーヴ本郷の「スポーツ観戦中毒者にスポーツ本は必要か」
 
■7月24日:第26回

 今をさかのぼること67年前、1936年の冬季五輪はドイツのガルミッシュ・パルテンキルヘンで開催された。この大会に最年少の12歳で参加(大会期間中13歳に)したのが、フィギュアスケートの稲田悦子さん。冬季五輪の日本女子代表第1号選手だった。
身長127センチの少女を開会式で見たヒトラーは「あの子供はいったい何をしに来たのか」と尋ね、それが大きな新聞記事になったという。稲田さんとヒトラーが握手する写真も残されている。
 その稲田悦子さんが8日、亡くなられた。
 
わたしたちのオリンピック
『わたしたちのオリンピック』
Total Olympic Ladies会 編
【ベースボールマガジン社】
本体 1,748円

 TOL会編『わたしたちのオリンピック』(ベースボールマガジン社)。1996年の出版だから、現在は入手が難しいかも知れません。古書店ならあるでしょう。
 オリンピックに出場した女子選手の会(TOL会)による編集で、総勢52名の元五輪女子選手が思い出の文章を寄せている。こういう貴重な本を出してくれるからベースボールマガジン社は偉い。
 この中に稲田悦子さんの文章もある。
<私のオリンピック体験談など、お伽噺となりました>と記された、当時のエピソードを拾ってみよう。

・スケート選手団は前年12月に日本を出発し、途中、満州の奉天や新京でスケート大会を開催しながら、2ヶ月かけてドイツに到着した。
・出発前から食事の作法やドイツ語の会話などを勉強して行ったが、付き添いが父親だったため、女子選手の控え室に入ることができず、大変不便だった。
・この冬季五輪の1936年2月、日本では226事件が起こった。これから先の日本がどうなるのかと皆が心配する中、1ヶ月かけてマルセイユから神戸へ船で帰ってきた。
・当時、スケートの先生へのレッスン料は30円。小学校の先生の初任給が35円か40円の頃で、「あの親は頭がおかしいのではないか」と言われた。

 ぼくはこれらを読んで猛烈に興味を持ち、是非この人にインタビューしたいと雑誌に企画を持ちかけてみたり、自分でも記録を調べてみたりしたのですが、結局実現はしませんでした。一方的な片想いのようなものです。
 中国大陸でのスケート大会の様子や、冬のシベリア鉄道に乗ってドイツへ移動して行く2ヶ月の道のり、あるいは大東亜戦争が始まって以降のフィギュアスケート事情の変化など、もっとくわしいお伽噺を聞いてみたかった。五輪の演技はミリタリー・マーチをバックにして、しかも演奏は生バンドによるものだったらしいことなども確認してみたかった。とても残念です。

 ちなみに『わたしたちのオリンピック』には、以下のような戦前のエピソードも出てくる。1932年のロスアンゼルス五輪、水泳代表の菅谷初穂さんの文章から。
・ロスまでは約20日間の船旅で、毎日、水平線ばかり眺めていた。船の倉庫にテントを張り巡らせ、海水を入れて小さなプールをつくって練習した。
・ある日、日本へ帰る商船と接近するから、日本に手紙を書きなさいと連絡があり、急いでペンを走らせた。手紙はビール樽に入れて海に投げ込まれ、相手の船がボートを降ろしてそれを引き上げた。

 やっぱり、もっともっと当時の話を聞きたい、知りたい。その辺のスポーツ選手のインタビュー記事よりはるかに面白く、また、伝えていくべきことが含まれていると思う。

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