小説の評価とはいっさい関係ない話を書く。ミステリー、時代小説、恋愛小説、青春小説など、私が読むのはエンターテインメントが中心だが、それがどんな小説であっても、評価とは関係なく、物語のあちこちで立ち止まることが少なくない。たとえば複数の愛人を持つ主人公が、そのうちの一人と部屋で会っているときに、もう一人の愛人が訪ねてきたりすると、どうしてこの女は他人の部屋を訪ねるときに連絡してから来ようとしないのかと怒り出すシーンがあったとする。具体的な書名はあえて書かないが、本当にこういうシーンがあるのだ。愛人同士がかち合うのを心配するより前に、訪ねてきた愛人に、こいつは自分勝手なやつだと怒るのである。こういう箇所にさしかかると、私は途端に「お前、それはないだろ」と言いたくなる。ようするに、テレビを見ながら、ぶつぶつ言うのと同じですね。私はテレビをほとんど見ないから、テレビの前では呟かないが、その代わりに本を読みながら呟いているのである。いや、実際に言葉に出すわけではないが、思わず呟きたくなるのだ。
中年男のひとり言と思っていただければいい。これまで、『活字学級』(角川文庫)、『感情の法則』(早川書房)、『別れのあとさき』(毎日新聞社)とそのひとり言を書きとめてきたが(あとの二冊は北上次郎名義)、これから始めるこのコラムもその延長線上にある。これまでと同じ。新しい意図は何もない。タイトルを「中年授業」としたのは、『活字学級』の元版のタイトルがこれで、自分でも気にいっていたタイトルだったからである。文庫化のときに改題してしまったので、またどこかで使いたかった。ようするに愛着のあるタイトルというだけで、これにも深い意味はない。
というわけで、第1回目は、盛田隆二『おいしい水』(光文社)をテキストにする。まず、この長編の設定を簡単に紹介しておくと、主人公は三十歳の主婦上原弥生。夫の大樹は弥生より四歳年上で、業界最大手の印刷会社に勤務。弥生は二十四歳のときに職場結婚し、それからは専業主婦。いまでは幼稚園に通う娘がいる。住まいは高円寺の三LDKの新築マンションだ。このマンションのさまざまな住民たちとのさまざまな交流が描かれていく。そこにいろいろなことがあるのだが、それはこの際、どうでもいい。居場所を捜すヒロインの彷徨を、その交流と同時に描いていくのが本書だが、ここではこのヒロインと夫との関係のみを取り上げておきたい。
最初にお断りしておくが、弥生と大樹の関係を紹介するからには、ストーリーの展開を幾分かは割らなければならない。したがって、未読の方は注意されたい。もういいですか。この大樹という男は、とにかく精力絶倫である。弥生がどんなに熟睡していても、酔って帰宅すると妻のショーツを無理やり下ろし、両足を割って入ってこようとする。娘が起きるからと拒否しても「このあいだもそう言って拒否したじゃないか。その前は疲れてるから、その前は生理だから、その前は腰が痛いからって、もう一ヵ月もしてない。これで夫婦って言えるのか」。そう言って、トランクスを脱いで裸になり、妻のパジャマのズボンをつかんで膝まで一気におろすと、固くなった性器を突き出すのである。「ほんとは毎晩でもしたいんだから」と言うのである。別の日には午前三時に帰ってきて、熟睡している弥生の頬に固い性器を押し当てる。「な、いいだろ? 頼むよ」と言って、口の中に強引にねじこもうとする。弥生が拒否すると、両手首を掴み、首筋や腋の下や乳首を舌の先で愛撫してから、ねじこんでくる。その場面を引く。
「ショーツを膝まで下ろされ、片足だけ引き抜かれると、抵抗する気も失せた。早く終わってほしい。弥生は目をつむり、それだけを願った。大樹は両手で尻をつかみ、深く挿入したまま円を描くように腰を動かす」
これだけのことなら、妻の気持ちも考えない自分勝手な絶倫男、ということになるのだが、少しだけこの男を弁護するために、物語の後半で風俗の女性と遊んだことがばれるくだりの台詞も引いておく。
「性欲を抑えるのはむずかしい。一ヵ月も拒否されたら、いらいらして仕事も手につかなくなる。恥ずかしいけど言うよ。ある日、酔っぱらって終電車に乗って、痴漢寸前まで行った。そんな自分が怖くなって、風俗に行ったんだ」「なあ、聞いてくれ。風俗に行けば性欲は処理できる。でも虚しいんだ。ほんとうに抱きたいのはおまえなんだから。セックスがだめならそっと抱くだけでいい。そう思って、ぐっすり眠ってるおまえの肩に手をかけるだろ? でもそれだけのことで、おまえはびくっとして背中を向けてしまう。熟睡してるのに、身体が反射的におれを拒否してしまうんだろ」
これも勝手な理屈だと言えなくもないが、大樹に思いを寄せる部下から弥生あてにかかってくる電話の「主任のこと好きですよ、わたし。でも、なんにもないんです。なぜだかわかります? 女房を裏切れないってまじめくさった顔で言うんですよ」という台詞をここに並べてみると、この男が満更嘘を言っているのではないことも見えてくる。
そして最大の問題は、いろいろあって弥生が外で働くようになり、そこで知り合う年下男もまたヒロインを求めてくることだ。「おれ、気が変になりそうになる」と夢中で彼女の胸をまさぐり、舌を差し入れ、裸にし、股間に手を導いて固くなった性器を握らせるのである。コノヤロと思うのは、夫のことは拒否したのに、この年下男のことをヒロインが拒否しないことだ。いや、実際には拒否して、年下男もまた行為を途中でやめるのだが、ヒロインの感情が彼を拒否していないことに留意したい。
ずっと働きたかったのに専業主婦にならざるを得なかったことの鬱屈を、このヒロインが最初からかかえていたことが物語の冒頭に書かれていることを想起すれば、夫と年下男の違いは、彼女が主導権を握れるかどうか、居場所のない不安とそれを見つけた人間の強さの違いであることも見えてくる。問題は、目の前にいる男の違いではないのだ。理解のない男と、理解ある男の差では断じて、ない。けっして絶倫男の味方をするわけではないけれど、向き合おうとしなかったのは夫だけの問題ではなく、このヒロインの問題でもあったのではないか。そんな気がするのである。 |