|
|
『手紙』
東野圭吾 著
【毎日新聞社】
定価1,680円 (税込)
|
東野圭吾『手紙』(毎日新聞社)は、剛志が泥棒に入る場面から始まる。彼は膝と腰を傷めて現在は失業中だ。その心理はこう描かれている。
「手先が不器用で物覚えが悪い。自信があるのは体力だけだ。だからそれを生かす仕事を選んだのだが、そのことが仇になった。身体を壊したら、どこも雇ってくれない。先週まで働いていた仕出し屋も、配達の途中で激しい腰痛に襲われ、岡持をひっくり返したことが原因でクビになった。工事現場で働くことも、この身体ではままならない。右を見ても左を見ても八方ふさがりだった」
剛志がまとまった金を求めていたのは、弟の大学進学資金を作らなければならないと焦っていたからである。弟の直貴が進学を諦め、こっそりと会社案内を集めているのを知り、急いで進学資金を作らなければ、と剛志は考える。で、引っ越し屋で働いていた四年前のことを思い出すのである。老婆が一人暮らしの家。一年前に近くに行ったとき覗いたら、仔牛ほどの犬もいなくなっていた。ずっと忘れていたことなのに、そのことを剛志は突然思い出す。で、泥棒に入るわけだが、彼が捕まるはめになったのは、さっさと逃げずに、最後の最後に、ダイニングテーブルの上に置いてあった天津甘栗も貰っていこうとまた引き返したからである。その心理は次のように描かれる。
「母子三人でデパートに行った帰り、初めて天津甘栗を買ってもらった。直貴はまだ小学校に上がったばかりだった。子供のくせに甘いものが好きではない弟が、あの時は嬉々として食べていた。栗もおいしかったのだろうが、皮むきが面白かったのかもしれない」
これだけなら、弟に対する兄の愛、ということになるのだが、そうはならない。弟の直貴が兄に面会に行ったときの会話を引く。
「どうしてあんなことを覚えていたんだ」「あんなこと?」「甘栗だよ。天津甘栗のことなんか、どうして覚えていたんだ」「どうしてって訊かれても困るんだよな。何となく覚えてて、あの時あれを見た時、何となく思い出しちゃったんだ。ああ、直貴が天津甘栗を好きだったなって」
白眉はこのあとだ。「違うよ、兄貴。思い違いしてるよ」と直貴が言うのである。「甘栗が好きだったのは母さんだよ。デパートの帰りに買った甘栗の皮を、俺たち二人で母さんのために剥いてやったんじゃないか。母さんの喜ぶ顔が見たくってさ」
これが第一章の終わり。『手紙』はここから始まる物語である。「俺の勘違いか。俺、やっぱり間抜けだな」と剛志が肩を落とすこの場面を読むと、人のいい、どじな男をイメージするかもしれないが、実はそうではない。東野圭吾のうまさはこういうところにも現れている。
実はこの春、1週間の主夫生活を体験した。妻が海外旅行に出かけたので、私が自宅で主夫を務めたのである。息子たちももう大きいから私がいなくてもなんとかなるだろうが、いつも自宅に不在なので、こういうときに役に立たなくては、と考えたわけだ。しかしごみ出しから洗濯、料理まで、慣れないことばかりだから、けっしてスムースに運んだわけでもなく、自慢するほどのことではない。たった1週間の体験で本当の主婦の苦労をわかるわけがない、ということを書きたいわけでもないが、もう少しだけ続けておくと、ごみ出しも洗濯も食器洗いも犬の散歩も、そのひとつひとつはそれほどしんどくはないのだが、それが切目なく続くということが思ったより大変だった。仕事のスケジュールを調整して、その間は自宅で読書するだけにしていたのだが、電話が何度も鳴るのである。長男は就職、次男は大学進学を控えているので、まずはそれぞれの勧誘電話だ。それに株、不動産などのセールス電話も多い。牛乳屋に宅配業者にクリーニング屋などもピンポンピンポンと鳴らしてやってくる。そのたびに読書は中断するのである。いつも仕事場で読書しているときは、直通電話を知り合いにしか教えていないから滅多に鳴らず、セールスの飛び込みもない。だから、読書に専念できるのだが、自宅にいるとそうはいかないのだ。塾から帰ってくる次男を待っていると深夜1時すぎになることが多く、翌朝は8時に起こさなければならないから、仕事場にいると時として十四時間も寝てしまう私にしては睡眠時間が著しく少なくなるのも結構辛い。いや、ここはそういう話ではない。
その1週間のメニューをずいぶん前から考えていたのである。朝飯と昼飯は、そこいらにあるものを食べるとして、夜はきちんと作ろうと計画したのだ。そして、主夫生活最後の夜は、長男が大学のコンパとかで不在になるので、次男と私だけの食事になることが事前にわかっていたから、うな丼にする予定だった。冷凍のうなぎがちょうど二人分あったので、それをあたためるだけでいいから、これは簡単だ。で、その前日にその旨を告げると、「ぼく、うなぎ、嫌いだよ」と次男が言うのでびっくり。「うなぎを好きなの、兄ちゃんだよ」と言うのだ。えっ、そうだったのか。
そのとき突然、東野圭吾の『手紙』に出てくる前記の場面を思い出したのである。剛志が勘違いしていたように、私もまた勘違いしていたわけだが、剛志も私も、ただ粗忽な人間とすませるわけにはいかないような気がするのだ。剛志が勘違いしていたのは結局は弟の直貴を正確に見ていなかったからではないのか。自分のことしか考えていなかったからではないのか。『手紙』は、剛志がその錯覚に気がつくまでの物語である、とも言えそうだ。前記の場面はそのための伏線とも解釈できる。問題は、剛志にはそういう機会が与えられたものの、私にその機会はあるのだろうかということだ。すごく複雑な気持ちになるのである。 |