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WEB本の雑誌これまでのログ倉庫目黒考二の中年授業


当連載がついに単行本に!
人生のワンシーンを呼び起こす
50の寄り道読書エッセイ集。
目黒考二著『新・中年授業』
発売中!

『新・中年授業』 詳細はこちら
目黒考二の中年授業

■第46回
ブレイン・ドラッグ
『ブレイン・ドラッグ』
アラン・グリン著
【文春文庫】
定価 860円(税込)

   アラン・グリン『ブレイン・ドラッグ』(田村義進訳/文春文庫)の主人公エディは、フリーライターだ。仕事でいきづまっているときに、元妻の兄ヴァーノンとばったり会い、ちょっと一杯飲むことになってつい仕事の愚痴をこぼすと、そういう悩みならたちどころに解決してくれる新薬があるという。まだ市場には出てないが、臨床試験も済んでいるし、すごい効き目なんだという。エディは昔コカインの売人をやっていた男で、義理の兄とはいえ、少々怪しい男である。しかし、何の気なしにその薬をエディは飲んでしまう。ヴァーノンと別れて街に出た途端、効き目はすぐに現れる。それはこんなふうだ。

「バーを出ていくらもたたないうちにわかった。最初は知覚にかすかな変化が生じただけだったが、A通りのほうに5ブロックほど歩いたあたりで、本格的に効いてきて、まわりのものすべてに焦点が正確にあいはじめた。明かりの微妙な変化、わたしの左側をゆっくり通り過ぎていく車、すれちがう人々。服装も見分けられるし、会話の断片も聞きとれるし、表情も識別できる。すべてを知覚することができる。だが、ドラッグによる覚醒状態とは少しちがう。すべてが自然に思える。それから数ブロック歩くと、走ったり激しい運動をしたりして、肉体的限界をきわめたときの、爽やかな気分になってきた」

 自分の部屋に戻ってくると、「部屋を見る目はいつのまにか変わっていた。すべてが急によそよそしく、乱雑きわまりなく、異邦の地のように見える。とても仕事をする場所のようには思えない」ので、猛烈な勢いで整理し始める。その整理が終わると、実際には3時間半たっているのに、30分か40分くらいにしか感じない。その勢いのまま仕事を始めると、あれだけ滞っていた仕事がたちどころにどんどん進んでしまう。驚くことの連続なのである。

 ヴァーノンがくれた新薬は、MDT−48と呼ばれているもので、つまりは「頭に効くバイアグラ」なのだ。脳の活力をとことん引き出す薬なのである。こんなすごい薬ならもっと欲しいとヴァーノンのもとに駆けつけると、彼は何者かに殺されていて、その部屋から500錠のMDT−48をエディは持ってくる。

 誰がヴァーノンを殺したのか、と普通なら気になるところだが、エディの場合はそれどころではない。イタリア語の文法書を読むと、すべて知っていることばかりのような気がするし、パーティーにいくと、音楽、デザイン、歴史など、あらゆる分野の鋭い考察が自分の口から次々に飛び出てくる。だから、こんなふうになる。

「わたしはひとりでしゃべっていた。立ちあがって、部屋を歩くまわりはじめたとき、人造大理石の暖炉の上の大きな鏡にふと目がいった。それを見たときにわかったのだが、わたしはみんなの視線を一身に集めていた。なんの話をしていたかは神のみぞ知るだが、みなわたしの話を熱心に耳を傾けていた」

 もちろん、みんなが感心するほど頭がいいのは、MDT−48の効き目がある間だけだ。薬の効果がうすれると、なんだか頭がぼんやりしてしまう。で、数カ月たって、あと450錠しか残ってないというときに、ようやくエディは気がつく。MDT−48がなくなってしまったら、この天才的頭脳もなくなるわけで、薬が残っている間に、何か金儲けの方法を考えなければならないと。そして「株だよ、間抜け」と気がつくのが、128ページ。本書の4分の1のところだ。物語はここからまだ4分の3が残っているわけだから、まあいろいろあるのだが、このあとのエディの運命が知りたい方は、本書をお読みいただきたい。

 興味深いのは、MDT−48を飲み始めて初期のころのくだりである。カナダ人女優スーザンなどのメンバーが集まって、いつものように議論しているシーンを引く。

「しばらくしてスーザンの腕がわたしの腕に触れ、何度か視線を絡ませ、秋波を送ってきた。なのに、わたしはそれを無視して、ふたたびブルックナーとマーラーについての議論に戻った。理由はわからない。その議論にはもう飽きていたし、スーザンはとびきりの美人だったのに」

 自分の頭がよくなったことに興奮して、女性から秋波を送られても、それどころではないのである。この気持ち、実によくわかる。もっとも、慣れてくると、

「女性の反応についても徐々にあきらかになってきた。かならずしも話をする必要はない。離れたテーブルごしに、あるいは混みあった部屋で目があっただけでいい。なぜかわからないが、その目は好奇の色をたたえ、大きく見開かれ、腹を割っての打ち明け話が始まる。どのような場合にそうなるのかはわからないが、ときにはその先に進むこともある」 と、普通に接するようになるから、慣れというのはおそろしい。ずっと興奮して議論してほしかったという気がしないでもない。

 私だって、この頭がもっとよかったら、と思わないでもない。しかし実際にMDT−48を差し出されたら、あなたは飲みますか。エディを待っている運命を知ってから、というのはなし。いますぐ、答えられますか。

 実は私、どんなに頭がよくなると言われても、そんな薬は飲みたくない。音楽、デザイン、歴史など、あらゆる分野の鋭い考察なども、必要ない。理由は簡単だ。エディもこう述懐しているのである。

「薬が効いているあいだ、新しい自分は古い自分をほとんど見分けられない。濃い靄や分厚い擦りガラスの向こうから見ているような感じがする。昔はよく知っていたのにいまはほとんど忘れてしまった言語のようなもので、よほど神経を集中しないと、切り替えはきかず、元に戻ることはできない(略)。その結果、わたしがよく知っている者、というよりわたしをよく知っている者との付きあいは、だんだんぎこちないものになってきた」

 そうわかっていながら、エディは突き進んでしまったが、私はイヤだ。出来れば勘弁してほしい。いま近くにいる友人たちとぎこちなくなったまま生きていけるほど、私は強くないからである。




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