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『ためらいもイエス』
山崎マキコ 著
【文藝春秋】
定価 1,785円(税込) |
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山崎マキコ『ためらいもイエス』(文藝春秋)の主人公三田村奈津美の仕事は、本人の口を通してこう語られる。
「わたしが所属しているのは、社内で開発した技術を主にアメリカにむけて特許出願するための部署で、日本語のテキストを英語に翻訳する仕事を任されている。この部署に配属されてもうすぐ4年。自分で言うのもなんだけど、仕事はけっこうこなしているほうじゃないかと思う。最近、そろそろ役職手当のある身分になりませんかって話があるんだけど、正直まあ、どうしたもんかなって感じだ」
仕事しているときがいちばん楽しいと考えている28歳で、会社に泊り込むのも日常茶飯事。夕方に社に戻るとき、そのオフィスビルを見上げて、「俺の城」とこのヒロインは思うのである。そのときの心理はこうだ。
「このビル、そして会社の近くで食べる小諸そばの丼モノとのセットメニュー。最近はウナギにグレードアップしたためにすっかりご無沙汰してしまったが、あれこそがわたしの自由の象徴である。子供のころにずっと感じていた窮屈さは、仕事がぜんぶ解放してくれた。仕事はお金をくれた。仕事は住居と食事もくれた。そしてなにより、仕事はわたしに自由をくれた。いまは昇進という件で悩んだり困ったりしてるけど、悩みといってもそんなものは娯楽のうちだ。毎日を彩る車窓の景色ってほどのもんだ」
そんな奈津美が突然淋しさを覚えるのがこの物語の始まりである。実はこのヒロイン、これまで男性と付き合ったことがない。だから、いまだにバージン。それまではどうと感じたことがなかったのに、ある日、淋しさを覚え、で、奈津美を慕う後輩の青ちゃんが仕切る合コンに出席するところから、このラブストーリーは始まっていく。
その合コンに出席する前、以前から「姐さん、一度でいいからおいらに顔をいじらせてくださいよ。おいらこれでも学生のころ、メイクアップアーティストになるためのスクールに通っていたの」と言っていた青ちゃんが(もちろん、女の子だ)、社のトイレで奈津美に化粧する場面がある。そのとき青ちゃんは「勝負だ、嶋田ちあきー!」と叫ぶのだが、実はこの「嶋田ちあき」が何者なのか、さっぱりわからないのが愉快。これ以前にも以後にもまったく登場しない人物で、もちろん何の説明もなし。ようするに青ちゃんは、「嶋田ちあき」と過去に何かがあり、いまの気持ちはその過去のライバルと「勝負」するくらいの気合いと意気込みがあったということなんですね。
その合コンに出席すると奈津美はモテモテで、青ちゃんからは「この男泣かせ」と言われるのだが、それがどういう顛末なのかは本書をお読みいただきたい。ここでの問題は「ギンポ」君だ。母親に言われて仕方なく会った見合い相手が「ギンポという、天ぷらによく使われるお魚を連想させる風貌」だったので、ヒロインがひそかに「ギンポ」君と名付けた男である。この「ギンポ」君を問題にしたい。
というのは、このギンポ君、いったいどんな仕事をしているのか知らないが(奈津美が釣り書きを見ないから、読者にもわからない)、まあ気の長い男である。何かあるたびに奈津美が電話すると、すぐに駆けつけるし、ずっと介抱するのだ。わがままヒロインに振り回される図、といっていい。夜中に突然電話しても、奈津美が酔っぱらっていても、あるいは悲しんでいても、そのわけをこの男は聞こうとしない。ただじっと、見守っている。だから、奈津美は癒される。ここまではいい。
ベッドの上でさえ、このギンポ君は何もしないのである。最初の機会は、中野さんに振られたというか振ったというか、奈津美がとにかく荒れていたときで、突然ギンポ君の部屋を訪れ、「チャイムを何度も鳴らして飛びこんできたかと思えば、『中野のバカ野郎、バカ野郎』と大声で何度も叫んで、いきなりベッドに大の字になって寝転がっ」たときだから、手を出さないのはまだ理解できる。ギンポ君は「このチャンスですから、ついでに脱がしてヤッちゃおうかと思いましたけど、踏みとどまってあげましたよ。あなた、僕に感謝しなさい」「今回は温情で許してあげますけど、次は保証しませんからね」と言うから、中野さんと違うこともわかる。実は中野さんも何もしないのだが、そのわけは本書を読まれたい。
しかし二度目の機会は、大磯プリンスホテルで別々の部屋をとったときで、この場合は機が熟しているといっていい。ギンポ君の部屋で、「なんか眠くなってきちゃった」と奈津美が言うと、「じゃあ部屋に戻ります?」とギンポ君が言う場面である。奈津美は「朝まで一緒にいたいから、ここで寝る」と言い、シャワーを浴びて寝巻姿になる。「なんですか、その恰好は。僕に襲わせるつもりですか?」と言われても、「ううん、襲わせなーい」とそのままギンポ君の腕に抱かれてやすらかに眠るというくだりだ。こういうシチュエーションなのに、奈津美に手を出さないギンポ君が理解しにくい。相当にヘンだなと思う。何なんだこいつは。
奈津美も28歳の大人であるから、さすがにヘンだなと思う。そう思わなかったらおかしい。その心中は次のように描かれている。
「妙だと思うことはもうひとつある。昨夜も結局、わたしの我儘放題だったにもかかわらず、ギンポ君はすべてを受け入れてくれた。なぜギンポ君は何かを要求するでもなく、これほど優しいのだろう」
そういう「優しい男」がこの世の中にいても不思議ではないから別にいいのだが、私はすっごく気にいらない。こういう男にかぎって裏表があるんじゃないの。そう思いながら読み進むと、疑ったことをすまないと反省するのがこの小説のミソだ。ネタばらしになるのでこれだけは書けないが、そういう「優しさ」には絶対に裏がある、と思っている私のような読者を説得してしまう話が、最後の最後に待っているのである。これならオレにもわかるよなと納得してしまった。
付記
以上の文章を金曜にアップしたら、さっそく読者からメールをいただいた。
それによると、「嶋田ちあき」というのは有名なメイクアップアーティストで、若い女性なら誰でも知っている有名人なんだそうだ。
だから、青ちゃんが「勝負だ、嶋田ちあき」と叫ぶのは、その有名人とメイクの勝負をするつりの気合なんですね。それを知らずに、「ようするに青ちゃんは過去にその嶋田ちあきと何かがあって、それと勝負するつもり」なのだ、と感心していたのがバカみたい。全然違うやん。Nさん、メール、ありがとう。
もっとも知らなかったは私だけでなく、編集部の松村(うら若き女性)もその嶋田ちあきを知らなかったようだ。おお、松村はもう若くないのか。
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