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『補陀落幻影』
東野光生 著
【作品社】
定価 1,680円(税込) |
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東野光生『補陀落幻影』(作品社)に、瑤子という女性が出てくる。「鬼無里」という小料理屋の女主人だ。彼女は次のように描かれている。
「長い髪を後ろでひとつにまとめた姿にはまだ若々しい華やぎがあり、五十代の終わりには見えない。大きくはないが爽やかな目をした、品のよい面立てである」
祐作が瑤子と知り合ったのは、犬の散歩がきっかけである。祐作は柴犬を飼っていて、日本テリヤを連れて散歩している瑤子といつかしら挨拶するようになり、近くで小料理屋を開いていることを知ってからその店に通い始める。そのころの瑤子は夫と死別して、幼い娘と二人暮らし。7年前に、その娘はヨーロッパ旅行をしたという記述が出てくるので、物語の現在では嫁に行っているのかもしれない。ここには出てこない。つまり瑤子はいま一人暮らしである。祐作は公立図書館を退職してからは、地元の地誌や地域史の編纂に携わっているが、それも月に一、二度外出するだけで、あとは自宅の書斎で過ごしている。こちらは妻帯したことがなく、生涯、独身である。年齢の記載はないが、物語上の現在ではおそらく70歳前後と思われる。
『補陀落幻影』は、この祐作と、一高時代からの親友阿山の友情を描く長編だ。戦争で失明した阿山と再会してから、読書が唯一の趣味だった友のために、祐作は仕事の合間に通信添削講座で点訳を学び始める。数カ月かかって仕上げた最初の一冊は『芭蕉発句集』。その本を阿山に渡すときの、「読みたい本は遠慮せずに言ってくれ。これからはどんな本でも読める」という祐作の力強い言葉が、読み終えても残り続ける。それから40年、祐作は図書館勤務の傍ら、タイトル数で百数十、巻数で千余巻の書籍を点訳し、すべて点字図書館に寄贈する。本書の冒頭は、ある福祉団体の職員から祐作に電話がかかってくるシーンだ。福祉文化の発展に貢献した功績を表彰したいというその電話に、祐作が「お話、大変光栄ではありますが、私のような者には身にそぐわないことで−−申し訳ありません。辞退させて頂きたいのですが」と断るのは、彼の点訳が福祉文化のためではなく、友のためであったからにほかならない。
「佐原、これまでのこと、本当に有難う。僕は今、万感の思ひを込めて、この一行を記します。君は、僕の闇に射す一筋の光明だった。僕はその光明を頼りに、今日まで生きて来た。思へば豊かな人生だった。全ては君の御蔭だったと思ふ」という阿山の最後の手紙まで、美しく、力強い友情の風景がかくて語られていく。しかしそれは例によって本書をあたられたい。ここでは瑤子と祐作の関係のみを引いておく。
常連客と女主人という関係にしては、親しすぎるのだ。たとえば「今日はいいお刺身があるんです。お時間があれば、あとでゆっくり飲みませんか?」と瑤子が祐作を誘うのはいい。閉店時間にはまだ間があるのに、店を閉めてしまうのもいいだろう。しかし瑤子は祐作を二階に案内するのだ。ただの常連客ならば、プライベートな空間に招待しないだろう。しかも、「私の夢を見るのは、犬くらいのものだ」と言う祐作に、「そんなことはありませんわ。あたしだって、佐原さんの夢を時々見ますよ」と言うにいたっては、怪しい。さらに瑤子はこう続ける。
「たいてい二人はまだ若くてね。なんということもなしに一緒にいるんです。別にどこかへ出掛けているわけでもなく、何をしているわけでもなく、ただ一緒にいるだけなんですよ。でも、あたしはなんだかとっても幸せな気分で」
これはどう解釈しても愛の告白としか思えない。ところが祐作は、「ところで話は変わるがね」と無理やり話を変えてしまうのである。変えるなよ。この祐作、別のときに、「こないだは珍しく洋装だったね。一寸見には、瑤子さんだとはわからなかった。きれいだったよ」と言うし、ペンダントをなくしたと言う瑤子にプレゼントするし、さらに、「一度どこかへ食事でも行こうか」と誘ったりもするから、まったくの朴念仁でもない。もっとも、食事に行ったからといって、何も起こらない。海辺のレストランでポルトガル風海鮮料理のフルコースを注文し、浜辺を散歩して帰るだけだ。その浜辺のシーンを引く。
「祐作は瑤子のそばを離れ、そのまま音を立てずに乾いた砂のところまで来た。振り返ると、瑤子はまだ海に向かって立っていた。水平線に向かう瑤子の後ろ姿が黒いシルエットになっている。祐作はしばらくのあいだその姿を眺めていた」
そっと瑤子のそばを離れるところに、他を寄せつけないこの老人の感情がある。祐作が生涯妻帯しなかったことには理由があることも触れておく必要がある。それが説得力ある理由かどうかはこの際おいておく。瑤子を綺麗だと思い、ペンダントを贈り、食事に誘いながらも、祐作はそれ以上の関係にならないように配慮する人間なのだ。だからこれは、きわめて特殊なケースといっていい。すべての老人がこういうものではないだろう。
それを承知のうえで書くのだが、老人の恋は初恋に似ている。「こんな素敵なペンダントを頂いて、そのうえにお食事だなんて、−−なんだかバチが当たりそう」と言う瑤子にしても、そう言うだけで、自分からは何も求めないのだ。中学生のころの初恋を思い出す。相手に何も求めなかった初恋を思い出す。歳を取ると、またあのころに帰るということなのだろうか。そんな綺麗事はないぜという気はするのだが、正直に言うと、ちょっといいよな、と思う。 |