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『終わりなき孤独』
ジョージ・P・ペレケーノス著
【ハヤカワ・ミステリ文庫】
定価 1,155円(税込) |
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ジョージ・P・ペレケーノス『終わりなき孤独』(佐藤耕士訳/ハヤカワ文庫)は、黒人探偵デレク・ストレンジを主人公にしたシリーズの第二作だ(第一作は『曇りなき正義』)。この主人公にはジャニーンという恋人がいて、「いままで雇った秘書のなかでもっとも有能な女。この探偵事務所を実質的に切り盛りしているといっても過言ではない。しかもありがたいことに、最高の尻を持ちあわせている。スカートの生地に包まれて、波打つその艶めかしさ。ここ何年かずっと、ジャニーンを見ると胸の奥がざわめかずにいられない」というほど惚れ込んでいるのに、それでもこの男、マッサージパーラーに出入りしている。もちろんそのことを懺悔はしている。こんなふうに。
「ストレンジはジャニーンのあとについて玄関ホールから廊下に戻りながら、ジャニーンのしっかりした足の運びと、後頭部の髪を見つめた。どうやら今日は美容院に行ってきたようだが、まだそのことでお世辞のひとつもいってやってない。それどころか、おれはこの女とその息子を心から愛しているにもかかわらず、ほんの数時間前にはマッサージ台に寝そべって、見知らぬ女にペニスをしごいてもらっていたのだ」
ところが、その懺悔が嘘のようにそれからもたびたび、昼日中からマッサージパーラーに行くから、懲りない男といっていい(自分では弱い男だと言っているが)。そういうだらしのない男でありながら、同時にこの男、ボランティアで少年フットボール・チームのコーチをしている。少年たちが悪の道に進まないように指導しているのだ。その片面だけなら厭味な男だが、両面があるから親しみを持つ。
で、そのマッサージパーラーの話ではなく、少年フットボール・チームの話である。こういう箇所がある。
「毎回の練習や試合を見に来るのは、十人ほどの親たち、それに親戚や保護者たちだ。だれもが献身的で熱心で、愛情にあふれている。だいたいは女だが、男も二人ほどいて、その顔ぶれはほとんど変わらない。姿を見せない親たちは、生活に追われて忙しすぎるか、男友だちや女友だちと遊びまわっているか、子どものことなど最初から無関心かのいずれかだ。そういう子どもたちの多くは、祖父母や叔母と住んでいる。彼らのほとんどは父親がおらず、なかには父親をまったく知らずに育ってきた子どももいる」
「だから積極的な親たちは、可能なかぎり力になってくれた。練習帰りや試合の行き帰りに車で送ってやる必要のある子どもたちは、親たちやコーチ陣がかならず面倒をみている。こういうチームを運営し、子どもたちが悪に染まらないようにするのは地域の努力だが、その責任は積極的な数人にかかっているのだ」
ここに、ジャニーンの息子ライオネルがデートにいくとき、「お母さんの車のなかで煙を吸うのだけはやめとけよ」とデレクが言って、ライオネルと喧嘩になるシーンを並べてみる。つまり、たとえ十人だけだったとしてもフットボールの試合会場には、親と子が同じ場にいることの至福がある。ところが、子どもたちは悪の手に染まらなくても、いずれは親から離れていくのだ。ライオネルがデートに行くように。親と子は永遠に同じ場にいることは出来ない。この二つのシーンが教えるのは、その至福と自立の風景にほかならない。
それは当然のことだからいいのだが、そのとき、少女とデートにでかけていくライオネルを親は心配しても、家の外に出た子どもはその間、親が何を思っているのかは考えないことに気づくのである。デレクはライオネルの本当の親ではないのだが、それはまた別の話だ。
中学生のとき、江ノ島まで級友と自転車でツーリングにでかけた1日、私は親のことなど頭に浮かべなかった。大塚駅前の養老乃滝で酒を飲んだり、阿佐ヶ谷の連れ込み宿に男三人女一人で泊まったりしていた高校生のとき、家にいる親のことをまったく考えなかった。先輩の下宿を泊まりあるいてほとんど家に帰らなかった大学生のときも、就職して麻雀と競馬に興じていたころも、親が何を思っているのか、考えたことがない。親は家に帰ったときに当然いる存在であり、それ以上のことは考えなかった。自分が何をしたいのか、何ができるのか、それすらわからなかったのだから、仕方がないとは言える。
しかしこのごろ、私の両親はずっと何を考えていたのだろうかと思うのである。子が家の外にいるとき、事故にでも合わないだろうか、喧嘩に巻き込まれてナイフで刺されてないだろうかと親なら当然心配する。江ノ島まで自転車で行ったら無事に帰宅するまで心配だし、連絡もしないで外泊したらやきもきもする。しかしそれだけではないのだ。
子が自分の人生に思いをめぐらすように、親もまた、激しく生きていたにちがいない。自分の人生をあれこれ思い、その感情の渦を持てあましていたにちがいない。夢と挫折、悔恨と希望は、若者だけの特権ではけっしてない。子が親を忘れる瞬間を持つように、親もまた子を忘れる瞬間があるはずだ。そのときに、父と母が何を考えていたのか、知りたいと思うのである。
以上のことは、幼いときから地元のチームに所属し、毎週日曜に試合がありながら、一度も息子たちのサッカーゲームを見に行ったことのない私の(生活に追われて忙しいというわけではないし、男友だちや女友だちと遊びまわっているわけではないし、子どものことなど最初から無関心というわけではもちろんないのだが)弁解と受け取られても、返す言葉がないのだが。
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