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WEB本の雑誌これまでのログ倉庫目黒考二の中年授業


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目黒考二著『新・中年授業』
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目黒考二の中年授業

■第73回
一千一秒の日々
  『一千一秒の日々』
島本理生 著
【マガジンハウス】
定価 1,365円(税込)
 
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 一紗は突然ベランダに現れる。二階のベランダから窓を叩く音がするので開けると、彼女が立っているのだ。「おまえ、どうしてベランダにいるんだよ」と言うと、「針谷の顔を見るため、塀をよじ登り、街路樹をつたい、ここまでやって来たんだよ。感謝しなさい」と一紗が言う。「月がきれいだからさ、散歩にでも行こうよ」と彼女は言うが、長い付き合いなので、「どうせまた帰れない理由でもあるんだろう」と針谷は騙されない。

 島本理生『一千一秒の日々』(マガジンハウス)である。これは、真琴と瑛子という二人の女子大生の日々を描く連作集で、針谷君は彼女たちが出入りするダイニング・バーでアルバイトしている青年にすぎない。だから主人公ではない。この連作集は、真琴と瑛子だけでなく、彼女らの周囲にいる人間たちの視点を随所に導入しているのだが、針谷君は、真琴の元恋人である加納君同様に、こうして一つのパートを与えられているにすぎない。しかし読み終えると、この針谷君の挿話が強い印象を残す。なぜなのか、という話を書くので、未読の方は注意されるように、と書いておく。

 針谷君は高校を卒業して運送会社に勤務するもその過酷な労働時間に音をあげて半年で退職。いまはダイニング・バーでアルバイトしている。体重は百キロ以上。中学からの知り合いである一紗が、誕生日にケーキを御馳走してあげるというので喫茶店に行くと、勃起を促す薬をくれるので唖然としたことがある。「だって針谷って糖尿病でしょう」と彼女はしらっとした顔で言うので、その夜は悔しくて泣いた。一緒にプールにいくと、一紗は「針谷、私よりも白いねえ」と言ったりもする。遠慮というものが全然ない。

「針谷君は頭の良い人だし外見だって体は大きいけどきれいな顔をしてる」と真顔で高校の同級生恵ちゃんに言われ、で、一時期は付き合っていたのだが、彼女はなにか勘違いしているのだとずっと疑い、恵ちゃんが地方の国立大学に進学したのを契機に、別れようと告げた過去が針谷にはある。

「馬鹿だなあ。むこうが好きだって言ってるんだから、そのまま信じれば良かったのに」と一紗には言われたが、彼女に好かれ続ける自信がなかった。
「針谷は、ちょっとばかり外見の良い男だけが女に好かれると思い込んでいるんだよ」と一紗は言うのだが、針谷に言わせれば、モテるのに問題のある男ばかり選ぶ一紗のほうがヘンだ。で、男につきまとわれて帰れなくなり、そのたびに針谷のところにやってくるのである。

 いつもは下ろしている前髪を真ん中から分け、もとがあまり知的な雰囲気の顔立ちではないために、さほど似合っていないと忠告すると、一紗は両手の親指を伸ばして針谷の鎖骨の上の喉元を突いてくる。突然だから咳き込んでしまい、「なんだよ、今の技は」と尋ねると、「高校のときに長月君が教えてくれたの。痴漢を撃退するための必殺技」。「俺は痴漢じゃないし、あんな格闘好きの言うことを真にうけるな。人が死ぬぞ」。こうしていつも、一紗は針谷の腹を殴ったり、飛び掛かってきたりする。針谷と一紗は、そういうヘンな関係だ。

 ここに名前が出てくる長月は、針谷や一紗の高校時代の級友で、いまもしょっちゅう針谷のところにやってくる。針谷が冷蔵庫からプリンを出すと、「なんでプリンが常備してあるんだよ」と文句をつける友人だ。負けずに針谷も、「うるさい。プリンを見てると、この柔らかさに癒されるんだよ」と言い返すのだが。

 その長月は、「やっぱり一紗ちゃんっておまえになついてるよな。本当に不思議だよ」と言うのだが、「どこがだよ。僕を優越感の道具にして、傍若無人にふるまっているだけだろう」と針谷は言う。「あんなワガママな女を可愛いだなんて思えるか」とも言う。

 もっとも中学生のとき、夜中に窓を叩いて起こした一紗が、「私、寝ちゃったよ」と告げにきたときのことを針谷はまだ覚えている。先輩にコクられ、好きかどうかわからないと言ったら先輩が怒って、さすがに怖くなって寝ちゃったのだという。そのときに針谷は言う。

「これからはおまえがなにか危ない目に遇いそうになったときには、かならず相談してほしい。そうしたら僕が出ていくから。もう一人で解決しようとするな」

 そのときのことを思い出す針谷の心中を引く。

「それから本当に幾度となく呼び出されて迷惑をかけられることになろうとは思いも寄らなかったが、あの夜の無表情な一紗をもう一度見るぐらいなら、そのほうがまだマシかもしれないとふいに思うのだった」

 針谷君が登場するのは、この連作集の「青い夜、緑のフェンス」という短編で(他の短編にもちらりと登場しているが)、その40ページしかない短編が強い印象を残すのは、セックスの介在しない関係のほうが、あとを引くからだ。加納君の挿話も、セックスが介在しないけれど、あちらは男女が惹かれ合っていない。男女が惹かれ合いながらもセックスの介在しない関係がいい。一紗はまぎれもなく、針谷君に惹かれている。それが人間としてという理由だったとしても、針谷君が男であるのは事実なのだ。ひょんなことがあっても不思議ではない。しかしセックスの介在しない関係だからこそ、この二人はおそらく永遠に繋がり続ける。それが私には羨ましい。




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