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結婚の条件がひとつだけあるとすれば「サンタクロースを信じてくれる人」という事だった。何も、「僕が一生君のサンタになるよ」とか、そういう事を言って欲しいわけでは決してない。(いや、実際言われたらそれはそれで嬉しいかもしれないけど)心の底からサンタやトトロを肯定してくれる人でなければ、一緒に生活するなんてとても無理なのだ。
なぜかというと、私の母親が引越しをして新しい家の押入れを初めて開ける時、「まっくろくろすけでておいで〜」と言ってしまう様な人だったから。彼女に34丁目の奇蹟、ネバーエンディングストーリーを見せられて育った私は世間で言うところのいわゆる不思議ちゃんになってしまった。
小3のクリスマスプレゼントに買ってもらったエンデの「はてしない物語」と学校の図書室で見つけた安房直子の「うさぎ屋のひみつ」が私の人生を決定づけたと言っても過言ではない。それにしても岩波の箱入りの「はてしない物語」のあの装丁の素晴らしさ!2色刷りも画期的だし、あかがね色に艶めき、2匹の蛇が互いの尾を噛み合っているあの表紙!世界中の子供達が自分の手の中にある本こそが、ファンタージェンへの入り口だと気付くであろうその瞬間を想像しただけで鳥肌がたつ。それに加えてもうひとつ。本の中で幾度も使われるこのセリフ。「けれどもこれは別のお話、いつかまた、別のときにはなすことにしよう」この一文に出逢った時の衝撃といったらない。私達が読んでいるのは、本として切り取られた物語の一部分にすぎない。最初の1ページ以前にすでに物語は存在し、本がパタンと閉じられたその後も本の中では物語は営まれ続けている。それは主人公に限った事ではない。登場人物それぞれに一生がある。そんな当たり前のことにどうしてそれまで思い至らなかったのか!
長くなったが、今回、そんな私の心を射止めたのが「おとぎ話の忘れ物」である。どうして小川洋子はこうも私のストライクゾーンばかりへ直球を投げてくるのか。おとぎ話が“忘れられている”とはどういうことかというと、例えば、駅の忘れ物保管室に、忘れ物の代名詞、傘などに混じって、それはひっそりと忘れさられている。その忘れ物のおとぎ話たちを世界中から集める事に一生を費やした男が造った「忘れ物図書館」。この中に収蔵されている物語たちの一部がこの本には綴られている。ここで先程の話を思い出していただきたい。アンデルセンやグリムといった古い童話からまたこうして新しい物語が生まれているのだ。
物語はただ始めからそこにあっただけと言っても、両の手からほろほろと零れ落ちるそれを掬い上げることの出来る作家はなかなかいない。そしてそれを描き出せる画家もまた少ないだろう。この二つのキャンディをひとつずつゆっくりと舐めるも良し。口の中で溶け合わせて楽しむも良し。こんな贅沢な読書があるだろうか?
ネバーランドに、今子供たちはどの位いるのだろうか?テレビゲームばかりに夢中になる子供が増え、ファンタージェンはまた虚無に襲われているのではないだろうか?そう思うと、本を読むという行為は義務感や、使命感に近いものへとなってゆく。本は、ただ紙をめくるだけでここではない場所へ連れて行ってくれる。自分が大人になって思うのは、ファンタジーは決して子供のためだけのものではないという事。私達がこうして本を読んでいる限り、読み続けている限り、あちら側の世界で物語が失われることはないはずなのだ。例えそれがドロドロの不倫小説でも、ちいとも犯人の目星がつかない推理小説でも。
そう考えると尚更、本屋ってなんて素敵な仕事なのか。そして、ソロモンの指輪を本気で欲しがる旦那様に出会い、寝る前に絵本を読んでもらえる私はなんて幸せなのか。だから試したくてうずうずする時がある。子供達しかいないあの夢の世界へ、今でも行けるんじゃないかと。
「ふたつめを右。あとは朝までまっすぐ!」
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