| 夢をよく見る。(子供の頃からフルカラーだ)一晩に3本立てで見たりすると、朝起きた時に夢の見すぎでぐったりしている事がある。夢の中で私がいる世界はいつも同じで、デパートはテナントが替わっていたりもするが、同じ街並みで、同じ建物が立っている。いつ夢を見ても、その世界の地理は揺るがない。胡蝶の夢ではないが、あまりにも世界観が確立しているために、私はもうひとつの世界があるのではないかとひそかに思っている。黒澤明の「夢」を見た後、映画に触発されて夢日記をつけた事があるが2週間ともたなかった。目覚めた瞬間からどんどん薄れてゆく記憶を書きとめていく作業は、思ったよりも大変だったのだ。
今、私達が立っているこの世界ではない町を描いたのが、待ちに待った恒川光太郎の新作『雷の季節の終わりに』(角川書店)である。主人公の賢也は“穏”という町で暮らしている。穏は私達の使っている地図には載っていない。私達の世界からは“隠れて”いる町である。
「先生は、赤や黄色や水色が雑多に塗られた長方形の布を黒板に広げた。
これは地図というもので、描かれているのは世界だという。」
「描かれているのは世界だという」この一文で、私はぐっと本の中へひきずり込まれた。確かに学校で私も地図について習った。習ったけれど、そこに世界の全てが描かれているなんて、本当なのだろうか。私の見る夢の世界のように、世界地図には載っていないものがあったとしても、何一つ不思議ではないと思うのだ。
この穏には、春夏秋冬の四つの季節の他に雷の季節がある。雷季がやってくると、町の人々は雨戸をかたく閉ざし、空から次々と降ってくる落雷をやりすごす。この雷の季節になると、穏からは人がよく消える。町の大人達は口を揃えて、鬼が攫ったのだと言う。仕方がないという。鬼の正体(は読んでいただくとして)を知っている人間も、知らない人間も仕方ないで済ませてしまう。人が消える事よりも、それで済んでしまう事の方がよほど怖いと思うのだ。雷の季節に、誰かがある日突然いなくなる。町の人達は、雷の季節だから仕方がないと言う。現世から離れ、牧歌的な暮らしをしているはずの穏の住人の心の中にも、闇が確かに存在しているという事実に打ちのめされる。いつの世も、本当に恐ろしいのは人の心なのだ。げに恐ろしきは人の世なり。げに恐ろしきは人の子なり。そして気が付くのだ。ここに描かれているのは穏などという架空の町などではない。私達の住んでいる、この世界そのものなのだと。
きちんと救いもある。本作は、穏という閉塞された町、そして陰鬱とした世界から抜け出してゆく賢也の再生の物語でもあり、賢也に取り憑いた風わいわいの(それにしても風わいわいという名前をどこかで聞いた事があるような気がするのはなぜだろう)長きにわたる呪縛からの救済の物語でもある。『夜市』(角川書店)がめぐりめぐるこの世の条理を描いていたとすれば、本作は今生を描いているといえる。季節は必ずうつろうもの。
「遠き日の姉の言葉通りに、やがては新しい季節が訪れる」
私達にも新しい年がめぐってきた。
新しい一年が、皆様にとって素晴らしい本との出逢いがある年でありますように。
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