とある電車の中。
「今日朝、食ってないから超腹減った。」
「何食う?」
ちなみにこれは女子大生と思しき一団の会話の一部。私はこの会話を聞きながら(だって聞こえるぐらい声が大きいのだから決して盗み聞きではない、と思う)
「食ってない、じゃなくて食べてない、でしょうが。腹減った、ではなくておなかすいたでしょうが。何食う?、じゃなくて何食べる?でしょうが!」
と心の中で叫んだことは言うまでもない。これは喋り手が女性だからとかではなくて、男性も聞き苦しくない言葉遣いをしてもらいたいと思っている。ちなみに我が家では「俺」禁止令を発しており、一人称は「僕」か「私」にして欲しいとダンナに申し入れている。発する言葉が美しくないと発した人間も美しく見えない。前述の女子大生もきっと仲間内のポーズで美しくない言葉を遣っているのだろうけど、やっぱりその集団は見苦しい。自分の価値を下げてはいけない、こんなことで。あなたたちはもっと美しくなる、はず!こんな感じで日々、カッカしながら巷の言葉に一人ツッコミを入れている。
しかしながら、私にそのようなことを言えるほど言葉の教養があるのだろうか、とふと疑問を抱いてしまう。義務教育期間中は国語大嫌いであまり本も読まず、高校時代はミステリーと大学入試の問題集ばかりで、大学に入っても国文科とは名ばかりの不真面目な学生だったというのに…。学生の頃は「だって面白くない」とか「社会に出て何の役に立つの」とか反抗していれば事足りたこともあるが、今になってみればもう少し言葉の教養をつけとけばよかった、と反省しきりの毎日。
でも、今からでも遅くない!と入門として本書を読み始めたところびっくり。教養以前に素晴らしい言葉は美しく、少ない語数で多くを語る。例えば
「燭(ともしび)を背けては共に憐れむ深夜の月
花を踏んでは同じく惜しけむ少年の春 (白居易)」
「少年や六十年後の春の如し (永田耕衣)」
これは「春のうた」の章に続けて載っているうたで、ともに「少年」という語が入っている。しかし前者は過ぎ行く歳月を惜しみつつも少年から青年への成長をうたい、後者は六十年後、つまり還暦後に再び少年のような瑞々しい感覚を取り戻したことを喜ぶ。これは私の勝手な解釈で本当は解釈なんてどうでもよくて、ただ、うたの語感にうっとりと身を遊ばせるのが心地よく、また少ない字数の中に表現される情景を味わいたい。情景といえばこれも。
「私の耳は貝のから
海の響きを懐かしむ (コクトー 堀口大學訳)」
春の穏やかな海が思い起こされる。本書には和歌・俳句・漢詩や詩の一部など印象的な言葉たちばかり。まるで「言葉の宝石箱」といわんばかりにそれぞれがキラキラと輝いている。
さあ、美しい言葉を味わい、手に入れましょう。
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