僕の好きな星新一のショートショートに『鍵』というものがある。学生の頃に知り、何十回も読み返している。主人公は恵まれても哀れでもない、そんな生活を送る男だ。人生に物足りなさを感じていた男はある夜、道端で不思議な形をした鍵を拾う。その鍵で開いたドアの向こうに新しい世界が広がっていると信じた男は、その鍵で開くものを生涯探しつづけるが、やがて老いがやってくる。あきらめて、自室にその鍵で開くドアを作って眠りについた夜、ドアの向こうから女神が現れ、若返りと不老長寿以外なら何でも望みを叶えてくれるという。その時、少し考えて男は答える。「なにもいらない。いまのわたしに必要なのは思い出だけだ。それは持っている」
『星新一 一〇〇一話をつくった人』で語られる星新一の生涯は平凡とも単調ともまったく違う。田辺製薬、武田薬品と並んで製薬会社の御三家と呼ばれた星製薬を一代で築き上げ、政界とも深い繋がりを持つ国会議員の父。人類学者で解剖学の草分けといわれる小金井良精と森鴎外の妹、喜美子を両親に持つ母。明治から大正、昭和にかけての星製薬の歴史は、当時の政治状況と時代を色濃く反映した不安的なものであり、父の死によって後を継いだ星新一に残されていたのは莫大な借金だった。
また、星新一が自殺した友人への追悼文に書いた「私は人生について深く考える事はあまり好きではない」「深く考えることに自分の性格が堪えられるかどうかが恐ろしいのである」という言葉。借金まみれの会社運営に行き詰まり「今日あたり死のうかな」と記した日記。親戚や会社役員の裏切りで人を信じることができなくなり、会社を他人の手に委ねた星新一は、やがてSF小説と出会う。だが、人気作家となりSF小説を日本に広める牽引役となる一方で、その小説は「人間がえがけていない」と評価されず、どこまでも苦悩の日々が続いていく。
本書の序章のタイトルは「帽子」となっていて、晩年にかぶっていた帽子の裏側に鍵のアクセサリーが縫い付けられていたことを紹介している。そして終章のタイトルは「鍵」。その人生を読み進めながら、僕は『鍵』の物語を思い浮かべる。異常なまでに鍵に執着し、そのためだけに生きた男は、まるでショートショートを書き続ける星新一のようだ。目標とした1001編を書き終えた晩年、星新一は自分の人生をどのように思っていたのだろうか。『鍵』の主人公のような心境に達していたのだろうか。膨大な資料を読み、関係者の言葉を集めることにより、星新一という人物に極限まで近づいた本書に、その答えは書かれていない。それはまるでパーツがひとつ欠けたパズルのように僕の心にひっかかる。きっと人というのは、どれだけパーツを集めても、必ずひとつ足りないのかも知れないとも思う。
人を信じることができなくなり、命を削るようにして小説を書きつづけた男。その人生で捨てられ、削り落とされ、失われた欠片、それこそが星新一が生きてきた証に違いない。そして、その欠けたパーツを探し、想像し続けることで、星新一は僕の心の中で生きつづけることになる。星新一に興味がある人だけでなく、あまり知らないという人もぜひ読んで欲しい名著だ。
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