詩人・蜂飼耳のエッセイ集。日常や旅先での些細な出来事や、出会った本についての様々な思い。その鋭い観察眼と、それを言葉にする力は読んでいて驚くばかりだ。
旅行には鋏を持っていくと便利だという著者は、飛行機に乗るときにも、それを手荷物に入れる。荷物検査のときにわざわざ申告して、一時預かりの手続きをする。「じゃあ、また後で。鋏との関係が、ふだん使っているときよりもいっそう親密になる瞬間。飛んでいるあいだにも、別の場所に安全にしまわれている鋏を思いやすらかな気もちになる。預かられる鋏と飛ぶ。」
僕が思ってもみなかった事が書いてある。けれど、それは僕が今まで意識していなかっただけで、言われてみると理解できそうな気がする。その気になれば僕も鋏と親密な関係を築くことは可能だろう。ふと見れば、机の上には僕が幼稚園の時から使っている鋏がある。ただ頑丈だからという理由で使っているが、30年近くこんなに身近にいる物はこの鋏しかないのだし、これは僕が気づいていないだけで、すでに親密な関係と呼べるに違いない。
子どものころ、階段で本を読むのが好きだったという著者。「階段は、留まるための場所ではなく、通過するための場所、別の空間へ誘う場所だ。だから本を読むにはぴったりの空間だったのだ。電車の座席のような、一時的な場所。そこにはほんの少しの落ち着かなさがあり、かえって、身体は文字の世界へ引きこまれた。読むことで、私はどこかへ行こうとしていた。階段で読まなくなったのがいつだったのか、覚えていない。(中略)階段には数え切れないほどの顔がある。それは、次の場所へ行くことだけを考えている目には隠される。階段は好きだが、階段そのものに住むことはできない。だれかと歩いていても、階段に差し掛かると、一人になる。その瞬間を味わう。その短い時間をいつでも味わう。」
この本を読むことで、様々な事や物や場所が意味を変えていく。鋏はただの道具ではなく、階段は移動のための通り道ではなくなる。何百回、鋏を使おうと、何千回、階段を上がり下がりしようとも得られないものが、この数行に確かにある。こういった感覚を味わうことのできる本はそうはない。読むということの意味をあらためて考えさせられる。著者はこう書いている。「本とは、要するに、他人の声なのだ。視線で文字を撫でるとき、声の記録は、読む者の肉体の深部に降り立ち、再生される。それは重みのある霧のようにしばし滞留する。愛され、憎まれる。受け入れられ、拒まれる。軽んじられたり、重んじられたりする。本は、互いを響かせ合う楽器だ。いろいろな音を知らなくても、生きていくことはできる。だが、無数の音を潜り抜けながら生きることもできる。読むとは、そういう行為だろう。」
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