福岡の郊外にある海水浴場へ行く。
海の家がある海水浴場に子供を連れて行くのは初めてで、海の家ってなあに? と聞くので、夏になるとな、海水浴場に食事をとったり休憩したりシャワー浴びたりできる家が、海の中からざばああんと現れるんや、大きな海老の背中に乗ってな。それが海の家や。うっかりそこで休んだりすると、そのまま家ごと海の中へ連れ去られて帰ってこられなくなる、それはそれはおそろしい家なんや。と語り聞かす。
つまるところ、私は海の家が嫌いなのだった。今日の海水浴場でも、ひとり1500円とか言い出す始末で、しかもシャワーは別でコインシャワーだという、シャワー代込みの値段じゃないのか。腹が立ったので、海の家は生涯利用すまいとあらためて胸に誓う。海の家なんぞ、みんな大波にさらわれてしまえばいい。
ビーチはさすがに日曜とあって多くの人出があり、水が濁っていた。しかもしばらくすると雨が降り出したので、さっさと引き上げることにする。それでも波にゆらゆら揺られて、子供たちは満足そうだった。
8月3日(日)
8月4日(月)
ひとり新幹線で東京へ戻る。もちろんこの程度の距離で飛行機は使わない。
途中山口県のどこかで、車窓から、大きな谷間の奥に岩肌のむき出した荒々しい山がそびえているのが見え、おお、こういう場所に住みたいぞ、と色めきたったが、あっという間に通り過ぎて地名も何もわからなかった。
新幹線で読んだのは宮崎賢太郎『カクレキリシタンの信仰世界』(東京大学出版会)。
9日ぶりのスットコランドに帰り、これからしばらくひとり暮らしである。さっそく届いていた新聞連載のゲラを確認。米を炊いて、買ってきた惣菜とともに食べた。
8月5日(火)
昨夜炊いた米でおにぎりを作り、それを持って仕事場へ。半日かけてサブカルコラムの連載原稿を書く。
外は雷雨。おかげで仕事がはかどったけれど、この雨が半端じゃない雨だったのであって、夜のニュースによれば二十三区内では冠水している建物もあったようだ。川が氾濫するなんて非日常的な事態のように思うが、最近の東京では珍しいことではなくなった。ヒートアイランドとか、集中豪雨とか、東京は日に日に過酷な気象条件の地に様変わりしていく。このままいくと、10年20年後にはとても人が住めない金星みたいな土地になってるんじゃないか。そうして郊外のコロニーから、灼熱と洪水の大地に、サラリーマンが宇宙服を着て、決死の覚悟で通勤していくのだ。
夜BSで四国遍路の番組をやっていたので見た。見ていると、自分も早く続きを歩きたくなったけれども、そんなことより雷で映像がびわびわになって、3分の1ぐらい何がなんだかわからなかった。
その後今度は宮崎駿のドキュメンタリーを見る。これは非常に面白かった。人を喜ばせていないと、自分に生きている価値がないような気がするという抑圧が、宮崎駿の心の中にはあるらしい。その抑圧こそが仕事へのドライブになっているのだ。
ならば私の中にどんな抑圧が潜んでいるかと考えてみた。抑圧ならたくさんある。飛行機怖い、食事が面倒くさい、ひとつの場所にじっとしていられない……ってなんかちがう気がするな、そういうストレスみたいな話ではないのだ。もっと生きる意味とか、そういう方面で何かないのか、劣等感とかトラウマとか、そういうのをバネにして作家はものをつくるんじゃないのか、んんん……劣等感? そうだなあ、○○ポコが小さいとか? 全然だめだ、小説になりそうにない。それに、歳とって、もうあんまり気にしてないぞ。
8月6日(水)
書評原稿を書くつもりで仕事場へ行くが、どうにも書き始められない。とりあげる本も、書く内容もとっくに決めてあるのに、しかも締め切りは明日だというのに、どういうわけか気が乗らないのだ。
どうしてなのか自分の胸のうちを分析するに、どうやらそれは、今度友人たちと行こうと企画している川下りのことばかり考えているせいであることがわかった。というか最初からわかっていた。
だって、私が幹事なのだ。まだ予約が取れていないこととか、集合場所のこととかいろいろ気になって仕方がない。それに、みんなで川下りしている楽しげな映像が頭の中にちらついて、どうにも落ち着かないのだ。
それで昨日の抑圧の件について思ったのだが、私の胸の中には、子供の頃思う存分野山で遊べなかったという意識がある。夏休みで、しかもいい天気なのに、家にこもって宿題をやっていたり、出かけてもすぐ近所の公園でしかなかったりで、あああ、もったいないもったいない、夏が過ぎていく! と子供の私はいつも唇を噛んでいた。なんだか膨大な量のミネラルウォーターが、工場廃水で汚れたドブ川にどぼどぼ流れ込むのを、指をくわえて眺めているような、そんな虚しさを常に感じていたのである。その思いが、こうして今の私のドライブになっているというか、仕事の邪魔になっているというか、これをなんとか仕事に役立てることができればと思うのだが、どうすればいいのだろうか。やはりまずは思う存分野山に遊び、そのトラウマを癒すことが大事なのでは?
そうそう、書けない理由がもうひとつあった。現在アメリカツアー中のジェットコ仲間の日記が、WEBにアップされていて、見たくないのについ見てしまうのだ。くっそう、腹が立って腹が立って腹が立つ。なぜ私がそこにいないのか。今からでも行って合流したいぞ。なんかもう長いことジェットコースターに乗ってないような気がする。数えてみると、もう5ヶ月ぐらい乗っていない。ちまたではジェットコースター評論家とさえ呼ばれることのある私が、そんなことでいいのだろうか。
働け。
不意に、カースン・ネーピアさんの声が、エアコンの吹出口から聞えた。
8月7日(木)
昨日の日記の続きではないが、この日記を連載している関係上、本の雑誌のWEBをよく見るようになり、大変困惑している。というのも、「帰ってきた炎の営業日誌」で紹介される本が、いちいち読みたくなるのである。どの本も絶賛しすぎではないか。私は本なんか読むより、原稿を書かねばと思っているのに、日に日に読みたい本が増えていく。
だいたい明日から北京オリンピックが始まるけれども、うっかり見てしまわないよう、新聞も止めて情報をシャットアウトしているぐらいの私なのだ。それなのに、紹介されていた佐藤多佳子『夏から夏へ』(集英社)をついアマゾンで注文してしまい、本日無事届いたではないか。
この本は、陸上日本男子の4×100mリレー男子チームのノンフィクションだそうで、かつて高校、大学と、まさしくその4×100mリレーの選手だった私は、買わずにおれなかったのである。知らなければスルーしていたのに、まったく大迷惑にもほどがある。読むぞ。読まいでか。そして読んだらきっと、オリンピックも見たくなる。陸上はいつからだ。100、200と、この4継、そして女子マラソンだけは見ていいことに今決めた。
立秋だからというわけでもないだろうが、夜になって涼しくなった。
家中の窓を開け放ち、室内の灯りを全部消して素っ裸になって涼んでいると、ほのかに牛糞の匂いが香り、不意に、学生時代に旅した東北地方のことを思い出した。牧場にあるユースホステルに数日間滞在し、羊の世話をしたのである。あのときは、羊って、鳴き声がまるで人間なんだな、と感心したのだった。
将来自分はどんな仕事につき、どんな人と結婚するのだろうか、どんな人生になるんだろうか、子供はいるんだろうか。
そんなことを漠然と思っていたあの頃の、何もしなくてもすべてが自動的に前に転がっていくような日常を、懐かしく思い出す。
突然、そうだ、ドライブしよう、とひらめいた。夜のドライブなんて、久しぶりではないか。どこかもっともっと涼しい場所まで走って行こう。
さっそく車に乗り込んだら、ガソリンがなかったので、まずはガソリンを入れに行った。夜に車を走らせていると、学生時代の気分がよみがえるようだった。今なら何時まで外出していても、妻に嫌な顔されることもない。オレは自由だ。ああ、オレにはまだまだ未来がある。これからどんなことだってできるぞぉ!
ところで、ガソリンは183円もした。
やっぱり夜のドライブは、ほどほどにしておくことにした。
8月8日(金)
しばらく放ったらかしになっていた四国遍路を書く。だいぶ前からかかっているのに、途中さまざまな仕事が入って中断し、時間がかかっている。
すでに冒頭の20枚ぐらいは書いてあるのだが、どうも自分で納得がいかない。何度書き直しても納得がいかない。とくに冒頭の10枚は、もう5,6回はゼロから書き直している。それでも納得いかない。困った困った。
佐藤多佳子『夏から夏へ』を読む。
4継日本代表メンバーのノンフィクション。選手たちの苦悩や、走るときの感触など、経験者である私には、いちいち実感としてわかってしまい、読んでいるうちに、自分も明日からでも陸上を再開したいぐらいの気持ちになった。体調が悪いときにいい記録が出たり、その逆もあったり、というところなど、そうだったそうだったとうなづいたり。まあ、もちろん彼らと私ではレベルが全然違うわけだけれども、やっぱりスポーツっていいよなとあらためて思う。
そしてそんな今日は、まさにオリンピックの開会式だったりして、まずいときに読んでしまった、まずいまずいと頭を抱えた。私はこの夏に四国遍路を離陸させ、できれば小説も再開したいと思っているのだ。開会式など見てしまったら、気分が高揚して、なし崩し的にテレビべったりの生活になってしまう。そこで心を鬼にして、レンタルビデオを借りに行った。
開会式の時間帯に当てて「パンズ・ラビリンス」を観る。悲しい。悲しすぎる映画であった
8月9日(土)
家族がいないので、週末も仕事場へ。
四国遍路の原稿にいいリズムが出来てこないので、カーテンを閉め切り、現地で撮ってきた写真をパソコンのディスプレイでスライドショーにして、ずっと音楽を聴いていた。原稿のことはいったん忘れ、歩いていたときの感じを思い起こす。
倉橋由美子『酔郷譚』(河出書房新社)を読んだ。女の人はエロスが自由に描けていい。男がエロスを描いたものは、どうしても言い訳くさい気がする。
